「宇宙飛行まで、私の信仰は人なみ程度の信仰だった。
人なみの信仰と同時に、人なみ程度の懐疑も持っていた。
神の存在そのものを疑うこともしばしばあった。
しかし、宇宙から地球を見ることを通して得られた洞察の前にはあらゆる懐疑が吹き飛んでしまった。
神がそこにいますということが如実にわかるのだ。
このような精神的内的変化が宇宙で自分に起きようとは夢にも思っていなかったので、正直いって、私は自分で驚いていた」
「宇宙船の窓から小さくなっていく地球を眺める……。
そして、宇宙と地球と自分を見くらべてそこに神の恩寵を感じ取る。
そういう洞察と、月にいるときに得た神がそこにいるという実感とはまた別のものなのだ。
その臨在感は、知的認識を媒介にしたものではない。
もっと直接的な実感そのものなのだ。私がここにいて、きみがそこにいる。
そのときお互いに相手がそこにいるという感じを持つだろう。
それと同じなんだ。わかるかな。
すぐそこにいるから、語りかければ、すぐ答えてくれる。
きみと私がこうして語り合えるように、神と語り合える。
人はみな神に祈る。さまざまのことを祈る。
しかし、神に祈ったときに、神が直接的に答えてくれたという経験を持つ人がどれだけいるかね…
すぐには何も答えない。それが普通だ。
神と人間の関係はそうしたものだと私も思っていた。
しかし、月ではちがった。祈りに神が直接的に即座に答えてくれるのだ。
祈りというより、神に何か問いかける。するとすぐ答えが返ってくる。
神の声が声として聞こえてくるというわけではないが、神がいま自分にこう語りかけているというのがわかる。
それは何とも表現が難しい。
超能力同士の会話というのは、きっとこういうものだろうと思われるようなコミュニケーションなのだ。
神の姿を見たわけではない。しかし、私のそばに生きた神がいるのがわかる。
そこにいる神と自分の間にほんとうにパーソナルな関係が現に成り立ち、現に語り合っているという実感がある。
これはどうしたって、すぐそこに神は実際にいるはずだ。
姿が見えなければおかしいと思って、何度もふり返って見たくらいだ。
しかし、その姿を見ることはできなかった。
だがそれにもかかわらず、神が私のすぐ脇にいるというのは事実なのだ。
私がどこにいっても神は私のすぐ脇にいる。
神は常に同時にどこにでもいる偏在者だということが、実感としてわかってくる。
あまりにその存在感を身近に感じるので、つい人間のような姿形をした存在として身近にいるにちがいないと思ってしまうのだが、神は超自然的にあまねく偏在しているのだということが実感としてわかる」
「月の上の活動は、すべてプログラムされていたとはいえ、無数の予期せぬシチュエーションに出会って、どうすればいいのか迷う場面が沢山あった。
通信基地の装置を組み立てるときに、ヒモが切れてしまうとか、漏れないはずの水が漏れるとか、予期せぬ困難が次々に起こってくる。
ヒューストンに問い合わせて、答えを得るまで待っていては時間がかかりすぎて間に合わないことがある。
自分がとっさの判断を下さなければならない。
どうすればいいのですかと神に問う。するとすぐに答えが返ってくる。
誰か人間にたずねて答えてもらうのとはプロセスがちがう。全プロセスが一瞬なのだ。
迷う、問う、答えるといったのは、説明のためであって、実際には一瞬なのだ。
まるで自分がどうすればいいかがすべてわかっていたみたいだ。
ジェネシス・ロックの発見が神の啓示だといったのも同じ意味なのだ。
探検家が苦労に苦労を重ねてついに発見したというのではない。
我々はいささかも迷うことなくそこにまっすぐにいき、それを手に取った。
まるでそこにそれがあるのを前から知っていたみたいだった。
神に祈っても直接の答えがない。仕方なく自分で判断を下す。
あとからそれが最良の判断であったことを知る。
そこで、あのとき自分が下したと思った判断はほんとは神のお導きであったのだと結果的に思う。
こういうことはよくあることだ。
しかし、そうしたいわゆる神のお導きとは質的に全くちがうのだ。
もっと直接的に神が導くのだ。
自分と神との間の距離感が全くない導きなのだ。要するに啓示なのだ』
宇宙では右脳が活性化し、月にテレパシー波が満ちていることがよく分かる。
また、人間の姿形をした肉体「イエス・キリスト」を絶対神として崇める現在のキリスト教国のクリスチャンが、アニミズム的な宇宙遍在神「イエス・キリストの本質」を悟ったということは注目に値する。

