「哲学や神学の本を読み進んでいくにつれ、キリスト教の伝統的教えに疑いを持ちはじめた。
そして、二十二、三歳のころだったと思うが、牧師になるのはやめようと決心した。
そして、自分をクリスチャンと称するのもやめにした。
宗教がいやになったというのではない。
私は依然として私なりに宗教的であるつもりだった。
しかし、私の信条は伝統的立場からは、異端とみなされざるをえないものになっていた。
つまり、私はイエスが神の子であり、キリストであるとは信じられなくなったのだ。
イエスも人間であると思った。
この点において、キリスト教の最も基本的教えから外れるわけだから、クリスチャンを名乗るわけにはいかなくなった。
私にとって宗教が大切だったのは、宗教が与える責任論理性だった。
しかし、哲学を勉強するにつれ、無神論の立場からも、非キリスト教的立場からも、責任論理の根拠づけが可能であることを知り、悔いなくキリスト教を離れた」
「神というのは、天の上にいるヒゲを生やしたジイさんのことかね。
それなら、ノーだ。信じていない。
50年代の後半に私はキリスト教から離れた。
その時点では、まだ相当に宗教的だったと思うが、その後、さらに離れた。
宗教的というより、むしろ、哲学的になっていった。
つまり、何かしら神的なものを仮定する必要を認めなくなっていった。
そして、結局、こう考えるようになっていった。
宗教というのは、一つの言語体系の問題であるということができる。
つまり、宗教を含めて、この世界を観る体系的見方がいろいろある。
自然科学もその一つだ。人間中心主義もあれば、理性中心主義もある。
イズムは沢山ある。そして、それぞれに独特の言語体系を作ってしまっている。
視野が狭い人は、一つの立場を取り、他の立場のものの見方に目を向けようとしない。
つまり、一つの言語体系を取り、他の言語体系を理解しようとしない。
その言語体系を通してのみ、世界を認識し、考察する。
そして、それだけが真理であり、他は真理ではないと思う。
しかし、視野が広い人はいろいろの言語体系を学んでみる。
そして、やがて、どの言語体系も、対象としているリアリティは同じなのだということに気がつく。
それぞれの言語体系を通して、みな同じ象をなでながら、ちがったことを認識し、ちがったことを考えているのだ。
しかしこのたとえ話の重要なポイントは、みなちがう認識を持つという点にあるのではない。
それにもかかわらず、みな同じものにさわっている。
同じものを対象としているという点にあるのだ。
そう考えると、他の見方に対して寛容になる。
私も、キリスト教から離れてすぐは、伝統的神学の立場に立つ見解に反発していたが、こう考えるようになってからは、反発せずに語り合えるようになった。
それも一つの象の見方であることにはまちがいないからだ。
それとともに、東洋の宗教思想により一層目を向けるようになった。
それまではどうしても学ぶものが西洋思想に偏っていた。
しかし、西洋の宗教は、セクトはいろいろあるが、基本的言語体系は同じである。
それに対して、東洋の宗教は全く次元のちがう言語体系を持ち、新しい精神の地平が開かれる思いがした」
「一言でくくるとすれば、人間の生命生活体験とでもいえるだろう。
そして、私は神が存在するとは思わないが、生命が進化しつつあること、進化には一つの方向があるだろうということ。
そして、生命にはあるパターンがあるということは信じている」
「私の宇宙体験は、ジム・アーウィンのそれのように、精神的に劇的な体験、一種の啓示体験のようなものではなかった。
宇宙に出て、宇宙から地球の姿を見ると、そのとたんに、アーラ不思議、あなまはいままでのあなたと全くちがった人になっているといったことがいつでも起こるというのなら面白いのだが、そういうものではない。
それにもかかわらず、私の宇宙体験は、私の生涯で体験した最も深い体験であり、その影響が私の残りの生涯を決定づけるような性質の体験であったとはいえる」
「それを語るのは非常に難しい。
それは本質的に語って人に伝えることができないような体験。
偉大な作家でもないかぎり、とうてい真の意味では語ることが不可能なような性質の体験なのだ。
しかし、一方で、この体験は、ぜひとも全人類にわかちあってもらいたいと願うような体験でもある。
願うというよりは、私はそれが義務だと思っている。
この強い義務感が、宇宙体験の与えた重要な精神的インパクトの一つなのだ。
つまり、その体験をしながら、私は、それが個人的な体験だとは思わなかった。
おこがましい言い方になるかもしれないが、人類を代表してというか、人間という種を代表して、自分がそこにいると思った。
自分を自分という一個人と見ることができなかった。
何か体験をしている最中に、その体験している自分を意識が客観視して見るということがあるだろう。
まるで、意識だけがちょっと離れたところにいって、そこから他人を見るように自分を見るという感じだ。
誰でもよくあることだと思う。宇宙体験でそれが起きた。
そのとき普通は、『ラッセル・シュワイカートがそこでこんなことをしている』と、個人ではなく、人間という種が見えたのだ。
そしてそのとき、人間という種に対して、自分の体験を伝えねばならないという義務感が生じた。
それはこういうことだ。たとえば、私がいま指で何かにさわるとする。
そうすると、私の指先は、私の肉体の一部であるが故に、自分が受け取った情報を私の肉体全体に伝えなければならない義務を負わされているからその通りにする。
私の指先がその義務を果たした結果、私の肉体は正しい行動を選択する。
肉体全体を人間という種に置けば、私は自分がその指先であるかのように義務感を意識したのだ。
だから、それ以来、あらゆる与えられた機会をとらえて自分の体験を誰にでも語るようにしているのだが、必ずしも自分の体験がうまく伝えられているとは思わない」
「宇宙体験といっても、それほど驚くべきことが数々あったわけではない。
宇宙船の中にいるかぎり、それは、超高空を飛ぶ飛行機の中とそれほどちがうものではない。
そして、宇宙船の中で起こることは、ほとんどシミュレーターで経験ずみのことだ。
たしかに、地球の眺めは素晴らしい。全くファンタスティックだ。
しかし、それはそれだけのことだ。
それに、宇宙船の中では与えられた任務を次々にこなすことに忙しく、ものを考えている暇がなかった」
「私はたった一人で、何もなすことなく宇宙空間に取り残された。
それは時間にして、わずか五分くらいのことでしかなかった。
しかし、その五分間が私にとっては人生において最も充実した五分となった。
宇宙船の中にいるのと、宇宙服を着て宇宙空間に浮かんでいるのとでは、同じ宇宙体験といっても、全く質のちがう体験だ。
宇宙船の中はモーターのうなりとか、人の声とか、さまざまの雑音がある。
しかし、宇宙空間に浮かんでいる間の宇宙服の中は完璧な静寂だった。
そのとき以外全く経験したことがない無音の世界だった。
無線が入れば別だが、それが切れているときは全く無音なのだ。
そして、宇宙船の中からは、小さな窓を通してしか外を見ることができないが、宇宙服のヘルメットは、透明な球体だから、視野をさえぎるものが何もない。
自分が宇宙空間のまっただ中にポツンと浮いていることがわかる。
下を見ると、地球がそこに在る。えもいわれず美しく在る。
自分はいま時速一万七千マイルで飛んでいるはずなのに、そのスピードを実感させるものは何もない。
完全な静寂が宇宙を支配していて、宇宙が丸ごと見えるのだ。
自分はそこに一人ぼっちでただ浮いている。
その感じ、これをどうしてもうまく伝えることができない。
いってみればそれだけのことになってしまうのだが、これは実に深みのある体験だった」
「私はその五分間が滅多なことでは得られない五分間であることを知っていた。
スケジュールが詰め込まれている宇宙飛行では、無為が許される時間はほとんどないからだ。
そして、宇宙船の外に出て、ほんとの宇宙空間を体験できるのは、その実験をおいてなかったからだ。
私は自分に与えられたその自由な五分間を最大限に活用しようとした。
宇宙をあちこち見まわしながら、意識的にいろいろなことを考えた。
お前と世界はどう関係しているのか。この体験の意味するところは何だ。
人生とは何だ。人間とは何だ。
この意識的な問いかけがよかったのだと思う。
どんな体験をしても、その体験が体験者にとって有意味である場合もあれば、無意味なこともある。
そのちがいは、その体験に対して心を開くかどうか、この体験の持つ意味を全部吸収してやろうと思って心を開くかどうかにかかっている。
体験に対して心を開かなければ、どんな体験もメカニカルにすませ、無意味に終わらせることができる。
自動車を運転しているときのことを考えてみればよい。
運転を終えてから、運転そのものはほとんど無意識のうちにメカニカルにやってきたために、運転そのもののことはよく覚えていないが、運転しながら車中で考えていたことのほうをよく覚えているということがよくある。
そのとき、意識の上では、運転を体験していたというより、考えごとを体験していたのだ。
考えごとのほうは有意味だが、運転のほうは無意識だったのだ。
宇宙飛行も同じことだ。
せっかく宇宙を飛ぶという体験を持ったのに、それを全く無意味のうちに終わらせた宇宙飛行士も沢山いる。
彼らの宇宙飛行は、フライトプランと実験計画だけで終わっている。
スイッチ、ダイヤル、計器、エンジン、そういったものをいじっただけで終りなのだ」
「人間という種に対する義務感を強く感じたということだ。
この体験の価値は、私にとっての個人的価値ではなく、私が人類に対して持ち帰って伝えるべき価値だ。
私は人間という種のセンサーだ、感覚器官にすぎないと思った。
それは私の人生において、最高にハイの瞬間だったが、エゴが高揚するハイの瞬間(ハイの場合はたいていそうなのだが)ではなくて、エゴが消失するハイの瞬間だった。
種というものをこれほど強烈に意識しのは、はじめてだった。
そして種を前にした、自分個人の卑小さを強く感じた。
それとともに、人間という種とこの地球との関係をもっと深く考えなければいけないと思った。
私の目の下では、ちょうど、第三次中東戦争がおこなわれていた。
人間同士が殺し合うより前にもっとしなければならないことがある。
人間と人間の関係も大切だが、人間という種と他の種との関係、人間という種との関係をもっと考えろということだ。
そのとき、それをもっと具体的に説明しろといわれたから、必ずしもうまく説明できなかったかもしれないが、その後、ラブロックが『ガイア』という本を書き、それを読んで、これだと思った。
これが私がぼんやりと考えつつ、うまくいえなかったことだと思った」
「ラブロックに従えば、人間と地球の関係は、人間と人間の体内にいるバクテリアのようなものだ。
地球は二つの循環系を持つ。大気と水と。
これが人間における血液循環系のような役割を果たしている。
大気と水が循環し、生物はその中で生きているということ自体は、これまでも生物学、生態学の常識だったが、彼のユニークなところは、その循環の精密な科学的分析から、これが物質の物理的循環ではありえず、巨体な有機体の体内循環としなければ解釈できないというこを科学的データをもとに示したところにある。
そして、この有機体が生きて進化しつつあり、あらゆる進化と同じように複雑化の過程をたどっていることを示したことにある。
人間は自分が最高の生物であるなどとこれまで誇っていたが、それは、人間の肉体のバクテリアが、人間という巨大な生物存在が見えずに、人間の肉体を単なる物質的循環にすぎないと思い、自分たちこそ最高の生物であると誇るようなものであるということだ。
こういう認識を得てはじめて、自分の宇宙体験の意味づけがよりよくできるようになった。
宇宙から地球を見たとき私の受けた精神的インパクトは、ちょうど、人間の体内にいたバクテリアが体外に出て、はじめて人間の姿全体を目にして、それが生きていて動いていることを知ったときに受けるであろうインパクトだったのだ。
人間はガイアの中で生きている生物であることを自覚して生きていかなければならない。
ガイアにとって、人間は何ものでもないが、人間はガイアなしでは生きられない」
「『ガイア』を読む前から考えつづけ、それを読んだあとさらに考えをふくらませるようになったのは、進化の問題だ。
宇宙体験以来、私は人間という種の運命を考えの中心にすえるようになった。
人類の進化はこれからどんな道筋をたどろうとしているのか。
人類はどこに向かっているのかという疑問だ。
人類の進化史という観点から見たとき、私はいまの時代が最もユニークな転回点だろうと思う。
我々はいわばいままでは母なるガイアの胎内にいたわけだ。
胎児のようなものである。それがおそらく妊娠九ヵ月近くになっている。
やがて月満ちれば陣痛がきて人間はガイアの外に産み落とされる。
それはおそらく人間より進化した新しい種の誕生という形をとるだろう。
何億年もの昔、それまで海にしかいなかった生物がはじめて陸に上がった。
それまでの生物は海でしか生きられず、海の外は生物にとって死を意味する環境であったのに、新しい種は海の外に出て、死の環境の中で生きる手段を身につけた。
これが生物の進化史の中で、これまでは一番大きな転回点だった。
それに匹敵するような、何億年に一回あるかないかという進化史の一大転換点が目の前にきている。
つまり、生物はこれまで死の環境でしかなかった大気圏外の宇宙空間に、人間という生物が進化して進出していくのだ。
我々の宇宙飛行はその前段階なのだ。
宇宙において自給自足しながら人間が生きていくことは、理論的に充分可能なのだ。
それが現実に技術的に可能になるまで、五十年かかるか、百年かかるか。それはわからない。
しかし、そのときが人間がガイアの胎内から出るときだといえるだろう。
そのとき、人類は宇宙空間で種としての再生産をはじめるわけだが、その結果、生まれてくる人間は、地球環境と宇宙環境のちがいから、新しい種とならざるをえないだろう。
いま人類は地球の上で核戦争による絶滅の危機にさらされている。
そのことと、我々がちょうど時を同じくして、地球の外に出る能力を身につけつつあることは、私には偶然の一致とは思えない。
子供を生んだ親は死に、新しい種を生んだ古い種は滅びる。
これは生物界をつらぬく法則だ。
死のうとしている古い種が、生存本能から新しい種を生み出すのかどうか知らないが、とにかくそうなっている。
核戦争が起こらないとしても、地球の上に人類のあまりよい未来はない。
というのは、人間という種の内容、画一化がどんどん進行しているからだ。
これは交通・通信の発達と、環境の画一化といういずれも文明のもたらした現象によるものだ。
一つの種が健全な生命力を保っていくためには、多様性が必要なのだ。
多様性のためには、多様な環境が必要だ。
特に、穏健な環境ではなく、過酷な過酷が必要だ。
それなのに地球上の人間の環境は、画一化に穏健になりつつある。
こういう種は種としてひ弱になっていく。
いつどんなことが原因で大絶滅が起きるかもしれない。
それに対して、宇宙に進出した人間は、宇宙という過酷な環境の中で、きたえられ、より強い種として発展していくだろう。
百年単位で見たときの人類の未来が、宇宙への進出にかかっていることは疑いのないところだと思う。
しかし、人間がいまのようにバカげた生活をつづけていれば、つまり、エネルギーを浪費し、環境を害し、しかもお互いに殺し合うという愚行をつづけていれば、人類の持つ最大の可能性である宇宙への進出を不可能にしてしまうということも起こりうると思う」
シュワイカートは、E・E・カミングスの次の詩を示した。
「神よ、私はあなたに感謝を捧げます。
まず、この最高に素晴らしい日について感謝します。
元気に跳びはねている木々の精霊について感謝します。
空の青い真実の夢について感謝します。
そして、自然で、無限で、『然り』と肯定できるすべてのものについて感謝します」
「なぜか知らぬが、宇宙体験で私が得たものが何かというとき、この詩のフィーリングが一番ピッタリするのだ。
神を信ずるものではないが、ナチュラルで、無限で、そして『イエス』といえるすべてのものについて、神に感謝を捧げたいという気持ちになるのだ」


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