2009年08月20日

「九鬼文書」と綾部・九鬼・大隅守の因縁の謎

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九鬼家と深い因縁を持つ出口直に憑かった「艮の金神」を、喜三郎は上田家の祖神「国常立尊」であると断定した。
出口家と上田家は、共に九鬼家の支族だったのだろうか。
そして、海部氏との関係は……。

直のお筆先には、次のような記述がある。

「あやべ九鬼大隅守と申すものは、これは因縁のあることざぞよ。
この因縁が判りてきたら、どえらいことになるぞよ」


大隅国(現在の鹿児島県東部と奄美諸島)の「大隅守」は、織田信広、九鬼嘉隆、島津忠恒(薩摩藩初代藩主)、小出三尹(和泉陶器藩初代藩主)、小出有棟(和泉陶器藩第2代藩主)、小出有重(和泉陶器藩第3代藩主)。

織田信広は織田信秀の子で、織田信長の庶兄であり戦国の武将であった。
九鬼嘉隆は九鬼氏第8代当主で、織田信長に仕えた九鬼水軍の武将(海賊大名)だったが、関ヶ原の合戦で西軍に与し、敗れて自害した。
寛永10年(1633年3月5日)に孫の九鬼隆季が綾部藩を立藩し、織田水軍として名を馳せた。
九鬼氏は南北朝時代から江戸末期まで活躍した氏族で、江戸時代に作成されたた家伝書では藤原北家の末裔と記されている。
また、京都で生まれた藤原隆信が伊勢国に移住し、九鬼浦に築城して九鬼隆信を名乗ったとする説もある。
九鬼氏は熊野で勢力を拡大できず、3代目の隆房の次男の隆良が波切村の川面家の養子に入って波切城城主になったが、子に恵まれず、志摩和具の青山家から養子を迎え、波切九鬼2代目の隆基となった。
この時点で九鬼氏の血統は断絶している事になるが、実は隆良は分家で、兄の隆長が本家だという説もある。
隆長の後は、光長・政長・政隆・浄隆・澄隆と続き、澄隆の異母弟の光隆が熊野に留まり、弟の嘉隆が北畠氏に仕えたという。

綾部藩・九鬼氏・大隅守の繋がりは一応分かったが、その因縁が判ればどえらいことになるとは、一体どういう事なのか……。
九鬼氏の出自は実際のところ不詳だが、藤原氏の流れではないことは明らかである。
九鬼家に伝わる古史古伝の『九鬼文書』には、神代文字の春日文字で書かれた部分があり、卑弥呼が書記したという伝説や、天児屋根命が天孫降臨の時代に記したものを藤原不比等が書き直したとも言われている。
重要な事は、『九鬼文書』に記された高御位山で、九鬼氏は宇志採羅根真大神(ウシトラコンシンオオカミ)を祀っていた事である。
そして、皇祖神をスサノオとしているが、まさに「艮の金神」と同一神格である。
または、宇志採羅根真大神(艮の金神)の現人神として、スサノオを初代天皇として定めたのであろう。

その綾部で大本が発生し、『九鬼文書』は王仁三郎にも大きな影響を与えている。
高御位山での「宇志採羅根真大神」の祭祀に関する伝承があるが、この高御位山には2つの文脈が存在する。
高御位山と言えば、兵庫県加古川市と高砂市の市境にある「播磨富士」と呼ばれる山で、その対岸には『霊界物語』で「坤の金神」が閉じ込められたという「神島」があり、王仁三郎が島開きを行なった。

もう1つは、王仁三郎が修行した亀岡の高熊山を指し、「あやべ九鬼大隅守の因縁が判るとどえらいことになる」という謎言葉との関連性が指摘されている。
これは古代の話ではなく戦国時代の話だが、九鬼家の歴史は古代に遡り、鹿児島県と奄美諸島(大隅国)にルーツを持つようだ。
その証拠に、鹿児島の霧島は歴史言語学では「ギリシア」を意味し、奄美大島の喜界島も「鬼界島=鬼ヶ島」に通じる。
「あやべ九鬼大隅守の因縁」を探る為には古代史にメスを入れる必要があり、機を改めて詳述することにしたい。

posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 14:32| Comment(0) | 日月神示の暗号と5度の岩戸開き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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