2010年11月15日

「一霊四魂」と愛と怒りの本質と一体性

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大和魂について、白峰氏はこう語る。

『日本人の精神の奥底にある大和魂(和魂)、この恵まれた平和安定の風土から自然に生まれたもので、縄文時代から神ながらの日本人の心として、涵養されてきたものです。
この心は対立抗争を嫌う和の心であり、自国を「大和」の国と主張してきたのも、和を最も大切な国家社会形成の基本と考えたからです。
大和心は、平和的で変化を好まない、日常性でありたいと願う女性の心でもあります。
女性神である天照大御神を拝むのも、大和心の自然の発露です。
この女性的な大和の国の平和が、外力によって乱される場合には、男性は決然と立って守ろうとします。
その心を「大和魂」といいます。これを和魂に対して、荒魂ともいいます。
古代の東国の防人や、幕末の国難時の吉田松陰、坂本龍馬などの志士や、今次大戦の神風特攻隊の勇士に、大和魂は生き続けてきたのです』


蒙古来襲に敢然と立ち向かった日蓮も、大和魂を発揮させた愛国烈士なのだ。

『不合理な攻撃を受け、自らの(時には他者の)可能性を守らねばならない状況に陥ったなら、戦いなさい』
(アリオン)

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「和魂」と「荒魂」については、須藤アキオ氏の説明を借りよう。

『古神道では、霊魂は真神(創造主)から分け与えられたもの(分霊)で、「直霊(一霊)と荒魂(あらたま)・奇魂(くしたま)・和魂(にぎたま)・幸魂(さちたま)の四魂により構成されている」と考える。

これを出口王仁三郎は、
「音声は心の柄で、心の活用は、荒魂・奇魂・和魂・幸魂の四魂と、これを統括する全霊(一霊)に分類できる」と表現した。

つまり、四つの魂があるということは、心に四つの働きがあるということで、心理学的にいえば自我(直霊)が意識(四魂)を統御しているということである。

四魂……心の四つの働きを王仁三郎の著書をもとに紹介すると、
(1)荒魂を一言でいえば「勇」で、用(はたらき)は「進展力」である。
(2)奇魂を一言でいえば「智」で、用(はたらき)は「観察力」である。
(3)和魂を一言でいえば「親」で、用(はたらき)は「親和力」である。
(4)幸魂を一言でいえば「愛」で、用(はたらき)は「生成化育」である。

この幸魂の「愛」は「生成化育」…森羅万象を生み育てる「神の愛」で、恋愛とは異なる。
その愛情はむしろ「親和力」を表す和魂であろう。
この各霊魂にはそれぞれ戒律がある。

(1)悪に勝つ「進展力」をもつ荒魂(勇)には、その行為が独りよがりにならないように、常に「恥じる」という戒律が与えられている。
《恥づることを知らずば人は争ひて獣に近き挙動なすなり》

(2)森羅万象を正しく認識する「観察力」をもつ奇魂(智)には、こうした能力によって得た力を正しく「覚る」という戒律が与えられている。
《もの学び智慧を研くは良けれども覚りなくば狂ひこそすれ》

(3)すべてを和らげる「親和力」をもつ和魂には、憎しみに陥らぬように、常に「悔いる」という戒律が与えられている。
《よし人に親しむとても悔いること知らずばつひに人に悪(にく)まる》

(4)総てを生み育てる心「生成化育」(天地法則)を示す幸魂(愛=神愛)には、神を「畏れる」という戒律が与えられている。
《人を愛で慈しむとも天地に畏るるなくば道に逆らふ》

これら四魂(心の四つの働き)が円満に活動するということは、人格の完成を意味している。
そしてこの四魂を統率するのが《義》を象徴する〈直霊〉で、「省みる」という戒律がある』


この「一霊四魂」がカッバーラの四神、ヨッド(Y)・ヘー(H)・ヴァブ(V)、ヘー(H)の四位一体「ヤハウェ」で、仏教でいう「四大天王=鬼子母神=十羅刹女」である。
この一霊四魂の概念は、神智学でいう「コーザル体」「アストラル体」「メンタル体」「エーテル体」にも対応する。

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それでは、本題に入ろう。
冒頭で述べた通り、「勇」である大和魂には「公」に対する「愛」や「慈悲」が伴っている。
大和魂は「愛国心」だと言っても良い。
新渡戸の『武士道』でも、『勇気がこの高みに達するとき、それは「仁」に近づく』とし、『愛、寛容、他者への同情、憐れみの情はいつも至高の徳、すなわち人間の魂が持つあらゆる性質の中の最高のもの』が「仁」と定義している。

白峰氏は言う。

『「やまとごころ」とは「いたまし思う心」のことです。
人をはじめ動植物の不幸を見逃すことができない心のことです。
「負担の理論」を指す言葉であります。
阪神大震災での若者のボランティアや日本海沿岸での重油回収作業のボランティアなどが「やまとごころ」の実践なのです。
諸葛孔明も同じことを言っているのです。
つまり、大徳の根幹にあるのが「やまとごころ」の精神なのです』


孔子の75代目子孫の孔健氏は、著書『孔子家の極意』の中でこう説明している。

『孔子は人間の生き方を説いていますが、一番大切なものは何かといえば、それは「仁」なのです。
「仁」とは人間が二人いれば生まれる関係です。
孔子がこの「仁」という言葉に込めた意味は、「情け」とか「思いやり」よりもっと広い「愛」と言い切ってもいいでしょう。
その「愛」は決して抽象的ではなく、自分の隣人や目の前の相手の二人の間に生まれる具体的な「愛」なのです。
たとえば、母親はわずかな食べ物しかない場合、自分は空腹を我慢しても我が子に与えます。
このような愛情は親子だけでなく、師弟、同僚、友人などの関係にも発露するべきで、それが「仁」と呼ばれるものです』


儒教では「仁・義・礼・知・信」を五徳とし、この順に重んじている。
任侠が「仁義」を大切にするのはその為だ。
だが、孔健は以下の注意をしている。

『「義を見てせざるは勇なきなり」の一節はよく知られていますが、誤解している人がいます。
友達が喧嘩しに行くので「義を見てせざるは」なんていいながら、加勢でついて行ったりする。
日本人は「義」というと、義理や忠義のことだと思ってしまう。
しかし、本来の「義」とは人間がとるべき正しい行ないのことです。
友達が喧嘩に行くというなら、止めるのが「義」にかなったことなのです。
周囲とうまくやっていくことも大切ですが、もっと大切なのは、間違っていたら正すことであり、自分でそれをやる勇気を持つことだと、孔子はいっているのです』


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ガンジーは次のように述べている。

「勇気こそが真のリーダーシップだ。
道徳的な勇気は自分の内にある善と一体感を持つことから出てくる」

「非暴力とは単に暴力の反対ではなく、全人類に対する愛だ」

「全ての人を自分と見なし、見返りを期待しない無我の奉仕が望ましい」


釈迦が「慈悲」を説き、イエスが「愛」を説いたように、孔子は「仁」を説いたが、それらが示すものは同じである。
では、「愛」とは何か。
愛には、エロス(自己愛や男女の愛)、フィリス(知識への愛)、アガペー(隣人愛や真理に向けられた崇高な愛)がある。
英語では、愛も恋もLOVEだが、ここでいう「愛」は、恋のような狭義の意味での愛ではなく、アガペーを指す。

「人間にとって最大の罪は愛が足りないことです」(マザーテレサ)

「愛は神であり、神は愛である。愛のあるところ、常に神は存在する。
人々をもっと愛しなさい。
その愛を奉仕に変え、奉仕をさらに神を崇める気持ちにまで高めなさい。
これこそ最高の霊性修行である」
(サイババ)

法華経の菩薩行は、一貫した愛他行為(奉仕)で進化を説く。

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では、『日月神示』の愛の概念を見てみよう。

「愛にも内のものと外のものとがある。
愛と申せば何でもよいと思ふていてはならん。
愛の悪もあるぞ。他を愛するは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。
自己愛を排してはならん、自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。
そこに新しき道開けるのであるぞ。自己愛を悪魔と説くは悪魔ぞ。
無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。一段昇らねば判らん。
愛は神から出ているのであるから。
神に祈らずに自分でするから、本を絶つから、我よしに、自己愛になるのぞ。
自分拝むのは肉愛でないぞ。愛から離れた信仰はないぞ。
血は愛によって生き、愛は喜びによって生きるのぢゃ。
喜びなき所に愛はないのざぞ。神ないところ生命栄えんぞ。
偽の愛、偽の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現はれを見ても見へないのであるぞ。
希望は愛の現はれの一つ。
どんな時、どんな人にも与へられているのぢゃ、希望に燃えつつ、現在を足場として生きよ。
呼吸せよ。
同じことしていても、希望もつ人は栄え、希望なき人は滅びる。希望は神ぞ」


「希望は愛の現はれの一つ」だという。
そして、「勇気」あるところに「希望」がある。

「あなた方人間は迷いも多く その迷いの友達である
幻に苦しめられ嘆く事も多い けれどあなた方人間には
神からの大きな贈り物としての希望がある
希望のあるところに愛がある 愛のあるところに光は満ちる」

(アーリオーン)

「愛は喜びによって生き、喜びなき所に愛はない」という事は、「喜び」が重要な感情だということになる。
「喜び」については次に検証するが、『日月神示』の「自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん」が非常に重要なフレーズとなっている。

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具体的な説明を求めてみよう。

「和のないところ天国ないぞ。
こんな判りきったこと、何故にわからんのぢゃ。
気の合う者のみの和は和ではない。
色とりどりの組合せ、練り合わせこそ花咲くぞ。
和合せんと誠のお陰やらんぞ、一家揃ふたらどんなお陰でもやるぞ。
宇宙の総てが繋がりであるぞ。
石でも水でも草でも動物でも総てが繋がりぢゃ。
手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。
和すと自分となるのぢゃぞ。自分大きく、明るくなるのぢゃ。
豊かに、嬉し嬉しぢゃ。和が根本、和が喜びぞ。
和すには神を通じて和すのであるぞ。
神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。
神から分かれたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。
神なくして和ないぞ。
世界平和と申しているが、神に帰って、神に通じねば和平なく、喜びないぞ」

「天使は天と地の和合者、仁人は地と天の和合者。
天界に住む者は一人一人は力弱いが和すから無敵ぞ。
幽界に住む者は一人一人は力強いが孤立するから弱いのぞ。
仲よう和してやれと申す道理判りたか」


以上をまとめると、「和=愛=喜び」という構図が成り立つ。
前項で、閻魔大王(国常立尊)の怒りが地震(慈神)だと述べたが、「怒り=慈悲=愛」でもあるのだ。
愛にも「愛の悪」があるように、怒りにも2種類ある。

アリオンは言う。

「ヒトがオコル時、カミである万物霊象のオコリである揺すぶりを受けていた。
しかし、今、ヒトは人間となり、オコリではなくイカリ(怒り)を表現する。
オコリとイカリは異なる。
オコリは大きなカミの身体的な揺すぶりであり、イカリは小さな局部的な滞りだ」


『日月神示』には次のように説明されている。

「下肚から込み上げてくる怒りは大きな怒りであるから、怒って良いのであるなれど、怒りの現はし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短くして下されよ。
怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。
胸からの怒は怒るなよ」


「愛」と「肚からの怒り」は一体なのだ。
「肚」は、「月+土」で構成されている。
つまり、人体を地球に対応させると、肚(腹)が大地なのだ。
昔は「肚が立つ」と言ったが、これが「下肚から込み上げてくる怒り」である。
神示が戒める「胸からの怒り」を「ムカつく」と言う。
現在では、頭にきて「キレる」と言う。
これは、本来「肚」にある意識が、物質主義によって頭脳偏重となり、意識が上に上がって来ていることを物語っている。
換言すれば、現代人は丹田(下腹)に気(勇気)がなく、大和魂が抜けてしまっているのだ。
posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 09:05| Comment(0) | カテゴリ未決定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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