1860年、山岡鉄舟が『武士道』を著し、「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念」と定義した。
新渡戸の『武士道』には、次のように記されている。
『仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。
ある一流の剣術の師匠は、一人の弟子が自分の技の極意を習い覚えてしまったのを見るや「私の指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らねばならぬ」といった。
禅とはジャーナを日本語に音訳したものである。
禅は「沈思黙考により、言語表現の範囲を超えた思考の領域へ到達しようとする人間の探求心を意味する」のだ。
その方法は黙想であり、私が理解している限りにおいて、その目指すところは森羅万象の背後に横たわっている原理であり、でき得れば「絶対」そのものを悟り、そしてこの「絶対」と、己自身を調和させることである。
このように定義するとすれば、禅の教えるところは、もはや一派の教義以上のものである。
この「絶対」を認識しえた者は誰でも世俗的な事柄から自己を脱落させ「新たなる天と新たなる地」を自覚するのである。
仏教が武士道に与え得なかったものは、神道が十分に提供した。
他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖への崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。
そのため、サムライの性格に忍耐力が付け加えられたのである。
神道の教学には「原罪」という教義が入り込む余地はまったくない。
それとは逆に、人間の魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、魂を神の意思が宿る至聖のところとして崇拝する。
神社には礼拝の対象物や器具が著しく乏しく、本殿にかかげてある装飾のない、一枚の鏡が神具の主たるものである。
この鏡の存在理由はたやすく説明することができる。
つまり鏡は人間の心の表象である。
心が完全に落ち着き、清明であるとき、そこには「神」の姿をみることができる。
そして参拝という行為は、かのいにしえのデルフィの神託「己自身を知れ」に通じるのである。
だが、ギリシャ及び日本の教えでは、自己知というものは人間の肉体的部分の知識、解剖学や精神物理学の知識を意味しない。
この場合の知とは道徳的な意味合いに属している。
つまり、私たちの道徳的性質の内省を意味しているのである』
そして武士道の源泉について、次のように続く。
『私たち日本人の内省は、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。
神道の自然崇拝には、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。
また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。
私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。
そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖な住処である。
私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。
天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである。
M・プートミーが英国の王室の尊厳について、「それは権威のイメージであるのみならず、国の統合の創始者であり、かつその象徴である」と述べたことが真実であるならば、私もそれに賛成する。
そのことを日本の天皇家の尊厳についていうならば、それは二倍にも三倍にも拡大して肯定しうる。
神道の教義は、日本人の感情生活を支配している二つの特徴、すなわち愛国心と忠誠心を合わせ持っている。
アーサー・メイ・クナップは「ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメサイアか、その民族そのものか、そのいずれを語っているのか、しばしば判断に窮する」と正しくも述べている。
これとよく似た混乱が我が国民の信仰の名付け方に起きていることに気がつく。
私はあえて混乱といった。
なぜなら、神道はその用語の曖昧さ故に、論理的な思考をもった人から見れば、混乱していると考えられるに違いないからである。
その上に、民族的本能や種族の感情の枠組みとしては、神道は必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要とはしていない。
この宗教(あるいはこの宗教が体現している種族感情といったほうがより正確ではないかと思う)は、武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹き込んだ。
これらのものは教義というより、その推進力として作用した。
というのは、中世のキリスト教の教会とは異なって、神道は信者にほとんど何の信仰上の約束事をも規定しなかったからである。
その代わりに単純な形の行為の形式を与えた。
厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道の最も豊かな源泉となった。
孔子が述べた五つの論理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされる遙か以前から、日本人の本能が認知していたことの確認に過ぎない。
冷静、穏和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特に相応しいものであった。
孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した。
孔子についで孟子が武士道に大きな権威を及ぼした。
彼の力のこもった、時には甚だしく人民主権的な理論は、思いやりのある性質をもった人々にはことのほか好まれた。
そのため、その理論は既存の社会秩序にとって危険であり、破壊的な作用をもたらすものと考えられ、彼の書物は長い間、禁書とされていた。
ところが、この先達の言葉は武士の心の中に永遠の住処を見出していった』
太田龍氏は『日本をここまでダメにした真犯人・大魔王を撃て(第一企画出版)』の中で次のように述べている。
『聖徳太子の著作として伝えられる著述、文章の中で神道を根本とし、その上で儒教と法華経を頂点とする仏教を消化すると記されている。
この命題が、聖徳太子が実在していようといまいと、その後の日本の思想史の骨格をなしていることは疑い得ない。
ここに神道といわれるものの実態は何なのか多くの議論がなされ得るが、聖徳太子と関係が深い筈の百済と三国(百済、新羅、高句麗)統一後の韓半島で、日本の神道と類縁性を持つと見られるシャーマニズムなどの神道的要素が、国民と民族の思想信仰の主流から外されてしまったこと。
にも拘わらず、日本では皇室を中心に皇室が仏教に深く帰依した時代においてさえ、神道が日本の国家と民族の土台ないし包括的枠組として生き続けて来たことは、何人も否定出来ない。
しかしながら、神道系の一部の人々が日本列島への仏教伝来を「仏魔の侵攻」と呼ぶことがあるように、仏教の内容に(あるいは仏教を通じてインド文明総体と中国文明総体に)多大な問題があることは認めないわけには行かない。
仏教はバラモン教社会の土壌から、それの否定、批判、超克として生まれた。
従って、仏教に厳重なカースト制度を持つバラモン教の要素が滲み込むことは殆ど不可避である。
妙法蓮華経は、万巻の仏典の中でバラモン教的なるものとの戦いの究極の到達点ではなかろうか。
この法華経信徒集団は、インドで滅び、中国でも成立せず、ただ日本においてのみ古神道の真髄と結び付いた形で、日蓮聖人によって産み出され得た。
内村鑑三が五人の代表的日本人の一人として、日蓮を挙げたのは誠に道理にかなっている。
日蓮は単なる仏教徒ではない。
日蓮は、神道と仏教の真髄と儒教の核心を結合した日本民族の精神的柱である。
日蓮には「神国王御書」「立正安国論」「守護国家論」の著作がある。
日蓮が出現していなければ、戦国末期からのユダヤの日本侵攻の謀略の前に、日本民族は既に滅びていたかも知れない。
神道と法華経。
これが、日本文明の原理となるであろう』
そして太田氏は、日蓮の宗教を「法華神道」と呼んでいる。
『日蓮の法華神道は、この大悪魔(ユダヤ)を破折し折伏する使命を以てこの日本列島に出現した。
神道には「破邪」の機能はない。
従って、もし日本民族に神道のみが存在するとしたなら、大悪魔の滲透と侵攻に対する免疫力が働かなかったであろう。
つまり、神道も滅ぼされたであろう。
仏教の日本化、日本化された仏教(その頂点に日蓮の法華経が位置する)あるが故に、日本民族は今日まで古神道(人類始原の文明の正統性を今日に伝える)の枠組を維持し得たのではないだろうか。
大正末年、ユダヤが一挙に日本占領に出て来た時、これを破砕する戦いの中核になったのは、当時の一握りの古神道派と井上日召らの日蓮主義者であった。
遺憾ながら、この時点では、彼等のユダヤ認識は皆無に近く、日本民族はユダヤの作戦に翻弄された。
既に、皇室、宮中奥深くにまでユダヤの魔の手が伸び、高等教育の学生は九割九分までユダヤ悪魔教(リベラリズム、マルクス主義、ユダヤ化されたキリスト教)のペテンに罠められていた。
明治維新唯一の生き残りの元老にして昭和天皇が全幅の信頼を寄せられた西園寺公望公爵は、きわめ付きのフリーメーソンのエージェント、すなわち国賊であった。
当時の維新派、愛好者が売国奴、西園寺を暗殺の標的としたことは余りにも当然だ。
日本民族の一部先覚者が、真剣にユダヤ悪魔教の本体の研究に着手したのは、実に昭和16年以降の3、4年のことに過ぎない。
この頃でさえ「日本は隅から隅までユダヤ化されている」といわれたのである。
平成の御世になって、ユダヤのプログラムを通りせきを切ったように日本のユダヤ化(日本的なるものへの全面的な解体)が前進した。
しかしそれと同時に、日本民族も反撃を開始した。
この反撃は、今回も古神道と日蓮法華を精神的基盤として組織されるようだ』
『古神道を根幹とし、法華経(インド文明の精神)と儒教(中国文明の真髄)を枝、葉とし、人類を滅亡に追い込む西洋のユダヤ悪魔教超克の上に立って産み出されるのが「天寿学」である。
日本民族が古神道という枠組を保持しつつ、仏教をも日本化したと了解するとしたら、儒教はどのようにして日本化されたのであろうか。
この問題は「孝経」に視点をしぼる必要がある。
中国儒教(ひいては中国人の道徳全体)は「孝」(親孝行の徳)を中心として成立する。
通俗に日本(化された)儒教は「孝」を「忠孝」に変えたといわれる。
しかし、これは皮相な理解だ。
日本民族は「孝」を四次元的な立体構造で把握したと見るのが正しい。
「忠孝一本」という日本流の言い方はこの四次元的孝の道の別の表現なのだ。
四次元的孝とは、
・一次元→親子の関係。親子の孝の道
・二次元→先祖をどこまでも遡ってゆく孝の道→先祖は地球そのものとなる
・三次元→太陽を先祖とする孝の道→天照大神への祭祀
・四次元→無始無終の大宇宙を究極の先祖、親とする孝の道。
神典では天御中主神となり法華経では妙法蓮華経となる。
自分→親→先祖(地球)→太陽→大宇宙へと中心を貫く孝の道、これが忠であると日本民族は観じ、また行ずる。
天皇「すめらみこと」の職務は、この四次元の立体祭祀を執り行うことであるとされて来た。
そのような意味で皇室は日本民族の中心であり柱であり続けた。
これに対しユダヤ悪魔教はどうか。
彼らの世界観の根本は、神仏への反逆である。
サタンは神仏への反逆者である。
彼らはサタンを崇拝する。
従って、彼らの言動は必然的に不可避的に宇宙の秩序の破壊となる。
彼らは神国日本の存在そのものを最大なる憎悪を以て見ざるを得ない。
今や、ユダヤ悪魔教に魂を奪われた哀れな家畜人とされた日本人は、「神国日本」と聞いただけで、飛び上がって怒る(アレルギーを起こす)ような心理にされてしまっている。
我々は、今や世界を蔽いつくし、地球壊滅に導きつつあるユダヤ悪魔教文明との一大対決、霊的精神的戦いを避けることが出来ないのである』
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