2010年11月22日

神話は霊的進化の法則を示す人生のガイドブック

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「快」「歓喜」の反対は「不快」「苦悩」で、これらは表裏一体となっている。
不快や苦悩の多い現代社会で、どうすれば快と歓喜に生きられるのか、これを知らなければ始まらない。
釈迦は「阿含教(アーガマ)」の中で、「生命が生じ、それが継続・展開していく為には、根元的な何かの力がなければならない。それは燃え上がる炎のように強烈で、灼けつく喉の渇きが必死に水を求めるような、激しく求める力である」と説いている。
つまり、生命とは、自己表現しようとして渇望してやまないエネルギーそのものということだ。
釈迦はこれをタンハー(欲望や煩悩)と表現し、これを滅却することで苦悩から解放されると説いた。

同様のことは『古事記』にも示されている。
神話は天地創造の物語であると同時に「預言書」でもある。
宇宙は破壊と再生を繰り返しながら進化する。
終末期に突入した現在、新たな天地創造が現在進行形で行われている。
そこで『古事記』は、単なる歴史書ではなく、どうすれば宇宙と共に人類が進化できるかを説いた「人生のガイドブック」となっているのだ。

仏典研究家の桑田二郎氏は、『古事記』は「現代人への警告」だとし、次のように主張している。

「古事記神話の秘められた部分で土台を成しているのは、見えない次元における霊的進化の過程で、それが古代の人々の生活の場を舞台に借りて表現され、そこに神話としての物語が構成されている」

そして次のように述べている。

「生命はもともと苦を逃れて快へ進もうとする性質があり、肉体が作り出す快感は、究極的な進化の実現に繋がる」

つまり、快(歓喜)が生命の本質で、進化への道なのだ。
氏は何者かの導きによって、『古事記』神話に秘められた霊的意味を解読し、『古事記の大霊言(21世紀ブックス)』に著している。
詳しくは同著をお読み頂きたいが、ここではその霊的解釈のみをピックアップして箇条書きで紹介したい。

@欲望には際限がなく、決して満足することはできない。
欲望は物質次元に向かう波動で、霊的進化の逆方向。
レベルが低いうちは、常に肉体生命の働きである感情や欲望に引きずられてしまい、そこに精神進化の脱線が起こり、進化の法則に反する「苦」という現象が現れてくる。

A欲望というものは、抑圧を加えられると限りなく不満をつのらせ、やがて怒りの感情を生み、嫉妬や憎悪の感情に育ち、その進化に反する精神波動は外の世界に災いという現象を現す。
災いは、生命進化をそれ以上脱線させない為の天からの働きかけなのだが、それに気付かないと、災いに対して怒り狂うという愚を犯し、更に大きな災いの連鎖が起きる。

B湧き起こる怒りの感情に打ち勝つのは、感情に負けない自らの「意志力」。

Cしかし、怒りの感情と闘っている心の中には既に怒りがあり、怒りから逃げても怒りはどこまでも追ってくる。
怒りを根源から断ち切る力は「理智」。
例えば、おいしそうなキノコがあり、食べてはいけないと言われて食べないのは我慢しているだけだが、そのキノコに猛毒があることを知れば、食べたい欲求が根こそぎなくなる。
怒りを抑圧するのではなく、怒りの感情を持たない「知恵」。
欲望にブレーキをかける理性こそ、霊的進化を実現させる。

D最悪の苦難に苛まれる時こそ、正しい知恵の目覚めるチャンス。
運命の中に苦悩や災難が起こり始めたら、まず自分自身を振り返れ。
だが、我意識から我意識に振り返っても、何も得るものはない。
瞑想によって我意識を消すと、生命の内なる魂の意識が現れてくる。
内観によって精神の中に生まれてくる進化に向かう正しい知恵は、人間の発想するものではなく、見えない次元から現れる神の啓示で、生命現象の真理を実感するところに大きな感謝と感動が湧き上がり、根深い精神の歪みが正され心が浄化され、霊的進化とそれに伴う幸福が実現する。


@ABは理論的なものだが、まず重要な認識がCの「怒りを根源から断ち切る理智」「怒りの感情を持たない知恵」である。

「人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという物質が分泌されます。
この物質はホルモンの一種なのですが、どういうわけかものすごい毒性を持っている。
自然界にある毒物では蛇毒に次ぐ毒性をもつといわれています。
もちろん脳内で分泌されるのはごく微量にすぎませんが、いつも怒ったり強いストレスを感じていると、この毒のせいで病気になり、老化も進んで早死にしてしまう。
ただ誤解のないようにしていただきたいのは、ノルアドレナリンやアドレナリンは決して悪者ではないということです。
人間の体の中で発生するものは、必ずそれなりの目的、必然性というものをもっています。
ノルアドレナリンやアドレナリンはドーパミンの親戚で人間のやる気や活力の源でもあるのです。
ただ体の中で、こんな毒がなぜできるのか、と思われるほど毒性が強い…
いつもイライラするような世界に入ってばかりいると長生きできないばかりか、人生が決してうまく運ばないのです」

(「脳内革命」春山茂雄)

「怒りや憎しみは心の毒です。
毒に当たって苦しむのは、あなた自身です」
(ジョセフ・マーフィー)

「憎しみはその心を抱くものの上に返ってくる」(ベートーベン)

人間は1回怒ると脳細胞が3000個なくなるといわれている。
また、怒った時の息を液化してマウスに注射すると即死するという報告もある。
潜在能力研究家の小林正観氏は、次のように述べている。

「損得感情が完全に頭に入ってしまうと、人間は声を荒げなくなります。イライラしなくなります。
声を荒げイライラした結果、人間は自分で毒液を出して、その毒液が五臓六腑をどんどん痛めつけます。
誰が一番損をするかというと、その言葉を発した本人ということになります。
一升瓶に普通の心理状態で息を吹き込み、そこにハエを1匹入れると40分くらいで窒息死します。
ところが、激怒した状態で同じ実験をすると、中のハエは3分くらいで死んでしまいます。
毒死です。人間が怒った時は自分では気付かないだけで毒気を吐いているのです。
私たちは体調が悪い時、愚痴や泣き言を言いがちです。
本人は病気ゆえに愚痴をこぼしているように思っているでしょうが、実は不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句(五戒)という否定的な感情が肉体を蝕んでいるらしいのです」


『日月神示』には「そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ」とある。
慢心は強い自我意識から生まれるものである。
宗教や精神世界では、「自我」や「欲望」は無くすように努めなければならないと説く。
だが、マズローや日月神示では、欲望を否定してはいけないという。
この点について、『日月神示』に詳しい説明がある。

「我を張っていると、いつまでも判らずに苦しむばかりぞ」

「世界中から神示通りに出て来て、足元から火が付いてもまだ我張りているようでは、今度は灰にするよりほかないぞ」

「我が此の道の大き邪魔となるぞ、くどいようなれど繰り返し繰り返し気付けおくぞ」

「神のそばに引き寄せても、実地に見せても、我が強いから中々に改心致さん臣民ばかり」

「人民の我では通らん時となったくらい判っておろうがな、早よ我捨ててこの方について参れよ、素直に致せば楽に行けるのざぞ、大峠越せるのざぞ」

「我出すなと申してあろう。
この度の岩戸開きに使う身魂は、我の強い者ばかりが、メグリ(カルマ)だけのこと償って、償うことぞ」

「我の強い守護神どの、もう我の世は済んだぞ。我出すほど苦しくなるのぢゃ」

「わが身を捨てて、三千世界に生きて下されよ、わが身を捨てると申すことは我を捨てること、学を捨てることぢゃ、捨てると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ」

「そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我の虫が生まれてくるぞ。
我の病になって来るぞ。その病は自分では判らんぞ」


ここまでは『仏典』や『古事記』が教えている通りだが、『日月神示』ではそこから続きがある。

「我がなくてはならん。我があってはならず、よくこの神示読めと申すのぞ」

「人間心には我があるぞ。神心には我がないぞ。
我がなくてはならんぞ、我があってはならんぞ。
我がなくてはならず、あってはならん道理判りたか。
神に融け入れよ。てんし様に融け入れよ。我なくせ、我出せよ」

「早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我死なねば、大我もなき道ぞ」


つまり、小我(自我)を無くすのではなく、拡大することによって神(宇宙意識)と融合すると言っているのだ。
オコツトが「自他一体となって自我が消滅する」と言っているのと同じである。

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宇宙意識に到達した知花敏彦氏は『釈迦とイエス 宇宙法則を語る』の中で、次のように述べている。

「人間という姿形を自分だと見てはなりません。本質においては総ては無限です。
その無限を見ている人は視野の広い人、個人を見ている人はただの視野が狭い人です。
それを普遍的原資と言います。無限大です。
その普遍的原資、本質には始めがないし、永遠です。
これを久遠我、普遍我、無限我と言います。無我の境地とよく言います。
無我の意味を知っている人は非常に少ないのです。
無我というのは無限の我のことであり、無という意味ではないのです。
無限の境地のことなのです。
無意識という言葉を使いますが、意識がないという意味ではないのです。
意識は無限ですよ、という意味です。
無我とは、個我のことではなく、全我のことです。
まだまだ悟っているか、迷っているかは、個人という思いがあるかないかで決まります。
人という思いがなくなって初めて、真の悟りです」


余談だが、いわゆるプライドが高い人というのは、小我(自我=個我)の強い人のことで、本当にプライドが高い人というのは大我(宇宙意識)と一体となっているので、誰に何を言われてもプライドが傷付くことはなく、慢心も怒りも起こらないのだ。

欲望についても、『日月神示』はこう説いている。

「そなたはまだ欲があるぞ。欲を、小さい自分ばかりの欲を捨てなされ。
そしてマコトの大深欲になりなされよ。
その気持ちさえ動いてくれば、何事も見事成就するぞ」

「それはそなたの自己欲から出ているぞ。
自己欲もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。
浄化して大き自己の欲とせよ。
自分のみの欲となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行」

「臣民近欲なから判らんのぞ、欲もなくてはならんのざぞ」

「御用いくらでもあるぞ、お蔭取り徳ぢゃ。
出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなあ」

「欲すてると判って来るぞ。マコトの深欲になれよ」

「禁欲は神の御旨でないぞ。欲を浄化して、生めよ、産めよ。
今の人民、欲の聖化を忘れて御座るぞ。
欲は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。欲を導けよ。
自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神に融け入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。
マコトの嬉し嬉しの喜びとなるのであるぞ」

「大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。
大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。判りたか」


人間の欲望には際限がない。また、人一倍欲深い人を強欲という。
だが、いずれも自分だけの小さな欲に過ぎないと神示は指摘している。
自他一体、宇宙一体となり、無限の大欲になれば、嬉し嬉しの喜びとなるというのだ。
これは、マズロー博士が説く「自己実現」と同じである。
船井幸雄氏はこの事を、「人類はエゴ(利己主義)的な生き方からエヴァ(共生・調和)的な生き方に転向しつつある」と表現している。
その形の現れが「奉仕」で、以前述べたサンタクロースのことだが、これについては機を改めて深く掘り下げたい。

さて、ここまでは理論編。先述の通り、桑田氏は内観を勧めている。
内観とは何か、なぜ必要なのか、そしてその実践方法を紹介しよう。
posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 12:01| Comment(0) | カテゴリ未決定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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