2010年11月22日

宇宙進化と人間の自由意志



進化できる者と淘汰される者との二極化が進んでいるが、この二極化が起こる原因を知らないと、更に大変な時代に突入することになるだろう。
まずこれから先、時代がどのような局面を迎えるのかを知り、その対策が人類と地球の進化を成功させることに繋がっていく。
意識進化が人類の集合意識レベルで起こるには、個々の意識の覚醒が促進し、それが人類の集合意識としてある臨界点に到達する必要がある。
このことは、「100匹目のサル現象」や「オセロの原理」として表現されている。
メモしか残っていないのだが、何かの本で次のようなことを言っている人がいた。

「その移行期には様々な摩擦が生まれる。
そのプロセスにおいて、個人・地域・国家のあらゆるレベルで短期的視野に基づく反動が起こってくるだろう。
地位・名誉・利権など、あらゆる権益確保のための利己的・保身的行動や組織の自己防衛行動が現れてくるだろう。
それがますます終末の混乱を拡大することになる。
移行をスムースに進めるには、各個人レベルでの意識の目覚め、一人ひとり全員の意識の変革と調和が不可欠である。
人類という総体は個人を通して現れる。
全体の成長は個人を通してこそ達成される。
一人ひとりの成長こそが(結果として)地球と人類の、ひいては銀河系宇宙の進化に貢献することになる。
やがで新しい意識が人々の中に目覚め、新たな次元へと飛翔するだろう。
こうした進化のプロセスの一環として、私たちは今、地球に存在している。
そのプロセスに参与する者として、私たちは今、地球に生きている。
だが、人は切迫しないと危機感を持たないようにできているのだろうか?
その一歩手前で悲観する人と楽観する人に分かれ、その一方で地球はそんな人々を棲まわせながらただ黙々と自らの道を行く。
できることはした方がいいが、悲観も楽観も表裏一体、紙一重。
だから、どちらに溺れようとも、それはそれで人間らしいことだとも思う」


オコツトや日月神示でも示されている通り、二極化が起こるのは必然であり、進化の道を選ぶか選ばないかは、個人の自由意志に委ねられているということだ。
『2013:人類が神を見る日』の中で、半田氏(ボブ)と友人サチの次のような会話が展開されている。

「……古代の人たちが意識進化して神様の世界に行っちゃったのなら、その時、進化できなかった人たちもいたのかなぁ」
「何で、そんなこと聞くの」

「だって、神道系の人たちは、もうすぐこの地球に大変なことが起こるから、御霊を磨いておきなさいって言うの。
そうしなければ新しく訪れるミロクの世に生き残れないって。
それって意識進化と何か関係があるんでしょ」
「ミロクの世がかい?んー、どうかな」

「だって、最近、世の中見てるとね、本当に人間の種類が2つに分かれていっているような気が確かにするの。
意識の変化みたいなものが人間に本当に訪れるって感じている人たちと、相変わらず経済のこととか政治の話ばかりしている人たち。
これってね、何か全然違う人種みたいに感じちゃうのよね」
「どうかなぁ…僕はあまり表面的に見ない方がいいと思うけど」

「そうかなぁ……」
「だってサチ、誰かが救われて、誰かが救われないなんて考えること自体が何か嫌じゃないかい」

「別にそんなに深く考えてるわけじゃないんだけど…でも、最近、世の中の人って、無茶エゴっぽい人たちと何だかウソみたいに優しい人たちに分かれてきてると思わない?」
「そうだなぁ、そういう気がしないでもないけど…でも、それだって、結局、両方、自分じゃないのか」

「両方自分…?それってどういうこと?」
「だって、サチは相手の中に悪いところを見つけて、自分はああなっちゃいけないとか、逆に、相手の中に善いところを見つけて、自分はああなくちゃいけないとか思ってるわけだろ?
そうだとしたら、いずれにしても、そう思わせてくれた相手に感謝しなくっちゃ。
善だけでなく、悪にも僕らは手を合わせて感謝しなくちゃいけないんじゃないか。
エゴっぽい人を見てエゴっぽいと判断すること自体が、やっぱりエゴっぽいと思うよ」

「……でも、それってバリ難しいよね」
「サチ、一つ質問していいかい」

「なに、なに?」
「まずね、人間は死んだら2つのところに分かれるとするよ。
そうだな…一つはシリウスA組ってところで、もう一つはシリウスB組とでも呼ぼうか。
この2つは俗に言う天国と地獄のようなところなんだけど、どちらも噂に聞くほどの待遇の差はないとしよう」

「地獄には針の山や血の池地獄とかなくて、エンマ様もいないってことね」
「ああ、その変わり、天国だってお花畑や観音様もいない。
ここはいわば次の人生に出発する前の待合所みたいな所で、どちらも和気あいあいと楽しくやってるんだ。
まぁ、B組の方が少し悪い奴が多いかも知れないけど……」

「うん、それで?」
「でも、次にそこを出る時があってね、この時は少し事情が変わってくる。
つまり、それぞれの魂たちの運命は大きく2つに分けられちゃうんだ。
いいかい、よーく聞いてよ。
シリウスA組に行った魂たちは、それから神様の世界に入って、死や病や煩悩から解放され、永遠の幸福を手にすることができるとしよう。
そして、逆にシリウスB組の魂たちは、また人間の世界に生まれてきて、死の恐怖に怯えながらいろんな苦しみの中に生きて、結局は80年かそこらで死んでしまう。
さぁ、サチはA組とB組のどっちを選ぶ?」

「そうだなー、B組かな」
「えっ…?サチ、B組ってのはまた人間に生まれてくる方なんだよ」

「うん、分かってる。私は人間の方がいい」
「へぇー、変わってるな……」

「だって、ボブ、人間って素晴らしいじゃない。
こんなに美しい自然があって、泣いたり、笑ったり、怒ったり、人を愛したり、人に傷つけられたり、それなりに、みーんな一生懸命やってるんだから。
それって、何かとてもうれしくならない?
神様なんかになっちゃったら、こんなの絶対、経験できないもん。だから、私は人間がいいの」
「…………………………。」


そして、半田氏のコメントが載っている。

――私はしばらくの間、言葉が出なかった。
彼女に悪に感謝しろと言っておきながら、私自身が善悪の区別をしているではないか。
私は何も分かってはいなかった。
オコツトにあれだけいろいろなことを教えてもらいながら、この私は何も分かっていなかったのだ。
そう、思ったとたん、私の瞳から涙が溢れそうになった…そう、これでいい…これでいい……。
彼女の答えでいいのだ。彼女の答えが正しいのだ。
何もかもが自然に、何もかもが自由に、何ものにも縛られることなく、すべてが予定調和の下に流れていく……。
これから一体人類に何が見えてくるというのだろう。
いずれ、大いなる終末の日がやって来るのかも知れない。
でも、もう、私はその日を「裁きの日」などとは呼ばない。
それは人間が本当の父と母に出会う日なのだ……――


半田氏のこのコメントを読んで、私も深く考えさせられた。
また、B組がいなければA組の進化は有り得ないのだ。
そしてA組に入りたいと思うのも、ある意味においてはエゴと言えるかも知れない。
だが、それもまた自然な想いであり、どちらの選択も正しいということができる。
少なくとも、地球、そして宇宙は、AとBの流れを生み出すことで進化を求めている。
それを成功させる為には、A組も増やさなければいけない。
だが、それすらも自然の流れの中にあり、最初から決定しているのかも知れない。
その流れの中で、シリウスAの真理を啓蒙をしていく役割を持つ人もいる。

「神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ」(日月神示)

1/10000の確率で、この世界が滅亡してしまわないように……。
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神話は霊的進化の法則を示す人生のガイドブック

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「快」「歓喜」の反対は「不快」「苦悩」で、これらは表裏一体となっている。
不快や苦悩の多い現代社会で、どうすれば快と歓喜に生きられるのか、これを知らなければ始まらない。
釈迦は「阿含教(アーガマ)」の中で、「生命が生じ、それが継続・展開していく為には、根元的な何かの力がなければならない。それは燃え上がる炎のように強烈で、灼けつく喉の渇きが必死に水を求めるような、激しく求める力である」と説いている。
つまり、生命とは、自己表現しようとして渇望してやまないエネルギーそのものということだ。
釈迦はこれをタンハー(欲望や煩悩)と表現し、これを滅却することで苦悩から解放されると説いた。

同様のことは『古事記』にも示されている。
神話は天地創造の物語であると同時に「預言書」でもある。
宇宙は破壊と再生を繰り返しながら進化する。
終末期に突入した現在、新たな天地創造が現在進行形で行われている。
そこで『古事記』は、単なる歴史書ではなく、どうすれば宇宙と共に人類が進化できるかを説いた「人生のガイドブック」となっているのだ。

仏典研究家の桑田二郎氏は、『古事記』は「現代人への警告」だとし、次のように主張している。

「古事記神話の秘められた部分で土台を成しているのは、見えない次元における霊的進化の過程で、それが古代の人々の生活の場を舞台に借りて表現され、そこに神話としての物語が構成されている」

そして次のように述べている。

「生命はもともと苦を逃れて快へ進もうとする性質があり、肉体が作り出す快感は、究極的な進化の実現に繋がる」

つまり、快(歓喜)が生命の本質で、進化への道なのだ。
氏は何者かの導きによって、『古事記』神話に秘められた霊的意味を解読し、『古事記の大霊言(21世紀ブックス)』に著している。
詳しくは同著をお読み頂きたいが、ここではその霊的解釈のみをピックアップして箇条書きで紹介したい。

@欲望には際限がなく、決して満足することはできない。
欲望は物質次元に向かう波動で、霊的進化の逆方向。
レベルが低いうちは、常に肉体生命の働きである感情や欲望に引きずられてしまい、そこに精神進化の脱線が起こり、進化の法則に反する「苦」という現象が現れてくる。

A欲望というものは、抑圧を加えられると限りなく不満をつのらせ、やがて怒りの感情を生み、嫉妬や憎悪の感情に育ち、その進化に反する精神波動は外の世界に災いという現象を現す。
災いは、生命進化をそれ以上脱線させない為の天からの働きかけなのだが、それに気付かないと、災いに対して怒り狂うという愚を犯し、更に大きな災いの連鎖が起きる。

B湧き起こる怒りの感情に打ち勝つのは、感情に負けない自らの「意志力」。

Cしかし、怒りの感情と闘っている心の中には既に怒りがあり、怒りから逃げても怒りはどこまでも追ってくる。
怒りを根源から断ち切る力は「理智」。
例えば、おいしそうなキノコがあり、食べてはいけないと言われて食べないのは我慢しているだけだが、そのキノコに猛毒があることを知れば、食べたい欲求が根こそぎなくなる。
怒りを抑圧するのではなく、怒りの感情を持たない「知恵」。
欲望にブレーキをかける理性こそ、霊的進化を実現させる。

D最悪の苦難に苛まれる時こそ、正しい知恵の目覚めるチャンス。
運命の中に苦悩や災難が起こり始めたら、まず自分自身を振り返れ。
だが、我意識から我意識に振り返っても、何も得るものはない。
瞑想によって我意識を消すと、生命の内なる魂の意識が現れてくる。
内観によって精神の中に生まれてくる進化に向かう正しい知恵は、人間の発想するものではなく、見えない次元から現れる神の啓示で、生命現象の真理を実感するところに大きな感謝と感動が湧き上がり、根深い精神の歪みが正され心が浄化され、霊的進化とそれに伴う幸福が実現する。


@ABは理論的なものだが、まず重要な認識がCの「怒りを根源から断ち切る理智」「怒りの感情を持たない知恵」である。

「人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという物質が分泌されます。
この物質はホルモンの一種なのですが、どういうわけかものすごい毒性を持っている。
自然界にある毒物では蛇毒に次ぐ毒性をもつといわれています。
もちろん脳内で分泌されるのはごく微量にすぎませんが、いつも怒ったり強いストレスを感じていると、この毒のせいで病気になり、老化も進んで早死にしてしまう。
ただ誤解のないようにしていただきたいのは、ノルアドレナリンやアドレナリンは決して悪者ではないということです。
人間の体の中で発生するものは、必ずそれなりの目的、必然性というものをもっています。
ノルアドレナリンやアドレナリンはドーパミンの親戚で人間のやる気や活力の源でもあるのです。
ただ体の中で、こんな毒がなぜできるのか、と思われるほど毒性が強い…
いつもイライラするような世界に入ってばかりいると長生きできないばかりか、人生が決してうまく運ばないのです」

(「脳内革命」春山茂雄)

「怒りや憎しみは心の毒です。
毒に当たって苦しむのは、あなた自身です」
(ジョセフ・マーフィー)

「憎しみはその心を抱くものの上に返ってくる」(ベートーベン)

人間は1回怒ると脳細胞が3000個なくなるといわれている。
また、怒った時の息を液化してマウスに注射すると即死するという報告もある。
潜在能力研究家の小林正観氏は、次のように述べている。

「損得感情が完全に頭に入ってしまうと、人間は声を荒げなくなります。イライラしなくなります。
声を荒げイライラした結果、人間は自分で毒液を出して、その毒液が五臓六腑をどんどん痛めつけます。
誰が一番損をするかというと、その言葉を発した本人ということになります。
一升瓶に普通の心理状態で息を吹き込み、そこにハエを1匹入れると40分くらいで窒息死します。
ところが、激怒した状態で同じ実験をすると、中のハエは3分くらいで死んでしまいます。
毒死です。人間が怒った時は自分では気付かないだけで毒気を吐いているのです。
私たちは体調が悪い時、愚痴や泣き言を言いがちです。
本人は病気ゆえに愚痴をこぼしているように思っているでしょうが、実は不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句(五戒)という否定的な感情が肉体を蝕んでいるらしいのです」


『日月神示』には「そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ」とある。
慢心は強い自我意識から生まれるものである。
宗教や精神世界では、「自我」や「欲望」は無くすように努めなければならないと説く。
だが、マズローや日月神示では、欲望を否定してはいけないという。
この点について、『日月神示』に詳しい説明がある。

「我を張っていると、いつまでも判らずに苦しむばかりぞ」

「世界中から神示通りに出て来て、足元から火が付いてもまだ我張りているようでは、今度は灰にするよりほかないぞ」

「我が此の道の大き邪魔となるぞ、くどいようなれど繰り返し繰り返し気付けおくぞ」

「神のそばに引き寄せても、実地に見せても、我が強いから中々に改心致さん臣民ばかり」

「人民の我では通らん時となったくらい判っておろうがな、早よ我捨ててこの方について参れよ、素直に致せば楽に行けるのざぞ、大峠越せるのざぞ」

「我出すなと申してあろう。
この度の岩戸開きに使う身魂は、我の強い者ばかりが、メグリ(カルマ)だけのこと償って、償うことぞ」

「我の強い守護神どの、もう我の世は済んだぞ。我出すほど苦しくなるのぢゃ」

「わが身を捨てて、三千世界に生きて下されよ、わが身を捨てると申すことは我を捨てること、学を捨てることぢゃ、捨てると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ」

「そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我の虫が生まれてくるぞ。
我の病になって来るぞ。その病は自分では判らんぞ」


ここまでは『仏典』や『古事記』が教えている通りだが、『日月神示』ではそこから続きがある。

「我がなくてはならん。我があってはならず、よくこの神示読めと申すのぞ」

「人間心には我があるぞ。神心には我がないぞ。
我がなくてはならんぞ、我があってはならんぞ。
我がなくてはならず、あってはならん道理判りたか。
神に融け入れよ。てんし様に融け入れよ。我なくせ、我出せよ」

「早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我死なねば、大我もなき道ぞ」


つまり、小我(自我)を無くすのではなく、拡大することによって神(宇宙意識)と融合すると言っているのだ。
オコツトが「自他一体となって自我が消滅する」と言っているのと同じである。

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宇宙意識に到達した知花敏彦氏は『釈迦とイエス 宇宙法則を語る』の中で、次のように述べている。

「人間という姿形を自分だと見てはなりません。本質においては総ては無限です。
その無限を見ている人は視野の広い人、個人を見ている人はただの視野が狭い人です。
それを普遍的原資と言います。無限大です。
その普遍的原資、本質には始めがないし、永遠です。
これを久遠我、普遍我、無限我と言います。無我の境地とよく言います。
無我の意味を知っている人は非常に少ないのです。
無我というのは無限の我のことであり、無という意味ではないのです。
無限の境地のことなのです。
無意識という言葉を使いますが、意識がないという意味ではないのです。
意識は無限ですよ、という意味です。
無我とは、個我のことではなく、全我のことです。
まだまだ悟っているか、迷っているかは、個人という思いがあるかないかで決まります。
人という思いがなくなって初めて、真の悟りです」


余談だが、いわゆるプライドが高い人というのは、小我(自我=個我)の強い人のことで、本当にプライドが高い人というのは大我(宇宙意識)と一体となっているので、誰に何を言われてもプライドが傷付くことはなく、慢心も怒りも起こらないのだ。

欲望についても、『日月神示』はこう説いている。

「そなたはまだ欲があるぞ。欲を、小さい自分ばかりの欲を捨てなされ。
そしてマコトの大深欲になりなされよ。
その気持ちさえ動いてくれば、何事も見事成就するぞ」

「それはそなたの自己欲から出ているぞ。
自己欲もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。
浄化して大き自己の欲とせよ。
自分のみの欲となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行」

「臣民近欲なから判らんのぞ、欲もなくてはならんのざぞ」

「御用いくらでもあるぞ、お蔭取り徳ぢゃ。
出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなあ」

「欲すてると判って来るぞ。マコトの深欲になれよ」

「禁欲は神の御旨でないぞ。欲を浄化して、生めよ、産めよ。
今の人民、欲の聖化を忘れて御座るぞ。
欲は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。欲を導けよ。
自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神に融け入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。
マコトの嬉し嬉しの喜びとなるのであるぞ」

「大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。
大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。判りたか」


人間の欲望には際限がない。また、人一倍欲深い人を強欲という。
だが、いずれも自分だけの小さな欲に過ぎないと神示は指摘している。
自他一体、宇宙一体となり、無限の大欲になれば、嬉し嬉しの喜びとなるというのだ。
これは、マズロー博士が説く「自己実現」と同じである。
船井幸雄氏はこの事を、「人類はエゴ(利己主義)的な生き方からエヴァ(共生・調和)的な生き方に転向しつつある」と表現している。
その形の現れが「奉仕」で、以前述べたサンタクロースのことだが、これについては機を改めて深く掘り下げたい。

さて、ここまでは理論編。先述の通り、桑田氏は内観を勧めている。
内観とは何か、なぜ必要なのか、そしてその実践方法を紹介しよう。
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2010年11月20日

世界統一の実現と法華経化の時代の到来

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○に・を入れるというのは、現在の形骸化した宗教に日本精神(神惟の道)を入れるという事でもある。

「今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ。
今の肉体のままでは人民生きては行けんぞ」

「日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。
今度は神があるかないかをハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ」


神惟(カムナガラ)の道とは、縄文時代の自然崇拝、即ちアニミズム(汎神論=汎霊説)である。
汎霊説とは、無機質・有機質問わず、万物に精霊が宿っているという思想で、宇宙全体が1つの巨大な生命体という考え方である。
分かり易く言えば、『カタカムナ文献』で説かれている内容が「カムナガラの道」である。
万物を構成し、空間にも遍在する素粒子に意識がある事は、最先端の量子物理学でも認められて来ている。

神道のルーツは、鹿児島県に残る民俗宗教「神道教」だが、その正体はアマ族によってもたらされたシンドゥ教(ヒンドゥー教)である。
日本列島には、それ以前から土着信仰として「神惟の道」があった。
恐らく、この神惟の道とシンドゥ教が習合し、シンドゥに「神道」という漢字が当て字され、「神道」の基礎が形成されたのだ。
後に、渡来人・秦氏によって「原始キリスト教」が習合し、陰陽道の呪術で封印する形で乗っ取られたのが「神社神道」である。

『日月神示』は神惟の道の復活を説くものであり、その封印解除の使命は封印を施した秦氏の末裔にある。
それが神社神道の元締めであり、天皇祭祀を司る「ヤタガラス」である。
故に、宗教統一は「伊勢神宮」のもとに執り行われる事になるだろう。
「聖徳太子」は3人の人物の総称だと言われているが、恐らく中心人物は「秦河勝」だった。
そうすると、「聖徳太子暗殺説」や、夢蛇鬼説である「秦氏の出雲族封印説」と矛盾するように思うかも知れないが、決して矛盾はしていない。

秦氏は神社神道の元締めであり、決して仏教を積極的に推進した訳ではない。
聖徳太子は「篤く三法を敬え」と説いた。
三法とは儒教・仏教・神道の事で、互いに尊重し合って学び合う事を説いたのだが、『先代旧事本紀』の中で次のように記している。

「神道とは、道の根本であり、天地と共に起こり、人の始めの道を教えたものである。
儒教は、道の枝葉であり、人々の文化と共に中道を説くものである。
仏教は、道の果実であり、人知の実りとして、人の終わりの道を説いたものである」


ところが、聖徳太子は死後、日本仏教の祖として、熱心な仏教徒に仕立て上げられた。
つまり、聖徳太子の暗殺は、崇仏派の陰謀だった可能性が高い。
久保有政氏は、聖徳太子は仏教を広めたのではなく、仏教を国教にする為に崇仏派に利用されたのだと結論づけている。

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話を戻すが、『日月神示』には次のように示されている。

「太日月地大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。
その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。
無限であるぞ、このほう一柱であるが無限柱ぞ。
総てが神であるぞ、一神ぢゃ、多神ぢゃ、汎神ぢゃ。総てが神ぢゃ、喜びぢゃ」

「一神説いて多神説かんのも片端、多神説いて一神説かんのも片端。
一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」


世界の宗教は一神教か多神教に大別されるが、本質的には同じものであり、それに神惟の道(汎神論)が加わる事で、世界中の宗教が真の意味での宗教として蘇るというのだ。
その時、人々は「万教同根」である事を悟り、宗教は統一される。
それが伊勢神宮において成されるとすれば、やはり神惟の道を源泉とする「日本神道」がキーとなる。

また、『カタカムナ文献』が超科学書と呼ばれている通り、汎神論は最先端の量子力学と一致する。
つまり、○に・を入れること、即ち、宗教に神惟の道を入れる事は「宗教と科学」の融合でもある。
本来、両者は分離されたものではなく、それが統合される事で「真の意味で宗教が蘇る=超科学が誕生する」と考えて良いと思う。
それによって人類は、古代の巨石文明を築いたテクノロジーや、今までとは全く違う文明開花や宇宙開発のテクノロジーを手に入れる事になるだろう。

神道は、宗教であって宗教でなく、世界の宗教を包含する「道」である。
多重登録を合わせると、宗教団体に所属する日本人は2億人以上いると言われている。
だが、海外では「日本人は宗教を持たない民族」だと認識されており、先進国で無宗教国家は「日本」だけである。
従って、宗教戦争でこんがらがった乱戦の世界を解くのは「日本」の使命なのだ。

神道のもとに宗教が統一される時、それはもはや「宗教」ではない。
お分かりだろうか、真の宗教統一は即「宗教破壊」なのだ。
宗教とは、人が真理を悟る為の「方便の学問」であり、人が真理を悟る時、宗教は不要のものとなる。
宗教が不要となった世の中を「ミロクの世」と言い、日蓮は「法華経化の時代」と呼んだ。
日蓮は「法華経化の時代」の到来の為に、法華経を説いたが、釈迦が予言した通り、仏教の使命期間は終了した。

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出口王仁三郎はこのように語っている。

「宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである」

「わしはなあ、この世でまず仏教を滅ぼす型をやるのや。
それがいろいろな宗教を滅ぼす型になるんや。
宗教というものがないのが、ほんま素晴らしい世の中になるんや。
そやけど滅ぶ宗教の中で、一番最後まで残るのがキリスト教やろう。
まあ、そのために、型の大本を潰させれば、他の宗教も没落するのや」


『日月神示』には次のように示されている。

「仏には仏の世界はあれど、三千年でチョンぞと申してあらう」

「方便ではどうにもならん。ぎりぎりの世となっているのぞ」

「方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みだのざぞ。
いまでも仏の世と思うているとびっくりがでるぞ」

「そなたはまだ方便をつかっているが、方便の世はすんでいるのぞ。
方便の世とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ、仏教もキリスト教も回教もみな方便ぢゃ。
教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となっているのぞ、道でなくてはならん。
変わらぬ太道でなくてはならんぞ。
方便の世はすんでほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終わるぞと知らしてあろうが」

「化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。
教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ」

「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申しているが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。
これまでは方便と申して逃げられたが、も早逃げること出来ないぞ」

「キリスト教の取次さん、仏教の取次さん、今の内に改心結構ぞ。
丸潰れ近づいて御座るに気付かんのか」


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『法華経』も方便である事は、『法華経』自体も認めている。
だが、仏教の中でも『法華経』は、聖書の終末予言及び千年王国を説く「ヨハネの黙示録」に対応する特殊な位置づけにある事は確かである。
また、鎌倉新仏教の各宗祖を生み出した天台宗の「根本経典」であり、日本のみで信奉されてきたという経緯を見ても、特殊な経典であると言える。
そして、法華経化の時代(ミロクの世)を説いた予言者・日蓮が『法華経』を重視したという事は、末法の時代に『法華経』が重要な役割を持つ事を示唆している。

しかし、他の宗教同様に『法華経』も形骸化し、魂が抜けた状態となっている。
どこの日蓮系教団も「日蓮の真意」を理解しておらず、本来の日蓮宗からかけ離れた独自の思想に走っている事は確かである。
その『法華経』を蘇らせるのが「神惟の道」であり、日蓮が説いた「法華神道」なのだ。
日蓮正宗が本尊とする曼陀羅の中央に「題目」が書かれているが、その左右に「天照大神」と「八幡大神」の神名が書かれている。

天照大神は、皇祖神にして伊勢神宮の主祭神である。
その正体は、太陽神「イエス・キリスト」である。
しかし、原始キリスト教徒「秦氏」が日本に渡来する以前から、日本には「アマテラス」が存在した。
それは「神功皇后」である。
「神功皇后」と「八幡大神」は鹿児島神宮の主祭神である。
先述の通り、鹿児島県は「神道=シンドゥ教」が上陸した地で、鹿児島神宮に伝わる「正八幡の縁起」にそのエピソードが記録されている。

世界の宗教が「神道」によって統一されるという事は、天皇を中心として宗教統一される事を示している。
「祀り事」は本来「政り事」と書き、古来より日本は政治と宗教が一体の「祭政一致」の国だった。
天皇が祭祀によって承った神託によって、政治が行われていたのである。
天皇の下に世界宗教が統一されるという事は、同時に、天皇が世界の政治を司るという事になる。
陰謀論などで、反キリストは一時的に「世界統一宗教」と「世界統一政府」を実現するという。
それを阻止しようとする動きは愚かである。
反キリストの功績が、天皇の世界統治の雛型になるからだ。

『法華経』の話をする上で、世界最大の法華経団体についても避けて通れない。
それは、宗教と政治で世界征服を企んでいるかのようなカルト教団だが、熱烈な狂信者が多い一方で、真っ向から反対する愛国者も多い。
私は後者の立場の人間だが、事実上、義理で入会もしており、調査・研究の為に少しは役立った。
私は信者でも反対派でもなく、総体的な視点からその教団の動向を見守っているが、その重大な役割については容易に説明できる話ではないので別の機会に謙る。

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宗教とは「宇宙を示す教え」と書く。
つまり、宇宙の真理・法則の事である。
宗教が不要になるという事は、自ら真理を悟るという事に他ならない。
本尊や教祖は外に求めるものではなくなり、本尊が内部に実在する事を認識し、自分が教祖になるのである。
そして、信者も自分だけであり、外に求めるものではない。
または、本尊(真我)が教祖で、自分(自我)が信者という関係である。
先のカルト教団でも、「本尊は内なるもの」と説いているが、その事を真に理解して悟っている信者は皆無に等しく、最高指導者が「神」の如く崇拝され、カルトスターとなっている。
「宗教団体」という思想や教義の組織が不要になった時こそ、万有の平和と安寧への自由な道が開かれるのである。

真理を悟る為には「内観」という行為が必要で、釈迦やイエスも「内観」によって真理に目覚めた。
彼らの内観瞑想には「断食」が伴った。
つまり、断食によって○(身)を掃除した事によって・(神の魂)が入ったのである。
これは「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と同じ原理である。
断食を強要する訳ではないが、意識進化の為にも「食」の見直しが急務だという
事である。
意識進化によって真理に目覚め、宗教は無用のものとなり、アセンション並びに「ミロクの世」の実現に直結するのだ。

「○に・を入れるというのは、現在の形骸化した宗教に日本精神(神惟の道)を入れるという事でもある」と冒頭に書いたが、それは真理に目覚める事によってしか実現しない。
結局、形骸化した宗教に日本精神を入れるという事と、食生活の改善によって体内を浄化する事は同義であり、直結しているのだ。
この「神仙組」の完結編として「超人進化論(実践編)」を予定していたが、実は「神泉組1・2」という別ブログで既に展開している。
これは夢蛇鬼(アンリ・クリスチャン)からあなたへのプレゼントなので、「アセンション・マニュアル」として受け取って頂きたい。
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法華経のルーツと日本仏教の発展と破壊

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日蓮とイエスの類似性について述べたが、久保有政氏の著書『仏教の中のユダヤ文化』では、「日蓮とヨハネ」、「親鸞とペトロ」、「道元とパウロ」の類似性についても書かれている。
また、夢蛇鬼説と同じ「阿弥陀仏=イエス・キリスト」説や、『法華経』のルーツ、「トマス=達磨」説、「聖徳太子の謎」など、非常に興味深い仮説が根拠立てて述べられている。
詳細は、同書の一読をお薦めするが、私の仮説を交えながら概要を紹介しておきたい。

『阿弥陀経』では、阿弥陀如来は「無量寿(永遠の命)」「無量光(永遠の光)
」と呼ばれている。
つまり、阿弥陀如来は「命」と「光」の仏なのだ。
イエス・キリストもまた、「命」と「光」の神である。

「私は初めであり、終わりである」

宇宙の初めから終わりまで存在する…つまり、永遠という意味である。

「私は世の光である」

「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」


それでは、「阿弥陀如来=イエス・キリスト」を検証してみよう。
阿弥陀如来は、西方十万億土の「極楽浄土」に住んでいるとされているが、イエスも西の彼方のパレスチナに住んでいた。
また、阿弥陀如来は世自在王仏のもとで人類救済の決意をし、イエスはヤハウェのもとで人類救済を決意して受肉した。
そして『無量寿経』は、阿弥陀如来が身代わりの修行をしたから、阿弥陀如来を信じて念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は救われると説いている。
一方、『新約聖書』はイエスが身代わりの受難の死を遂げたから、彼を信じる者は救われると説いている。

「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(「使徒の働き」第2章21節)

阿弥陀仏が救済の対象としているのは「悪人」だが、イエスも「悪人」を救済の対象としている。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。
『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』」

(「マルコの福音書」第2章17節)

西方極楽浄土の阿弥陀如来が「パレスチナのイエス・キリスト」を指していたのに対し、日本には東方浄瑠璃世界の薬師如来が存在する。
海外では、薬師如来像はインドには見られず、中国の敦煌に極一部存在し、朝鮮半島には比較的多くあるが、最も盛んだったのは日本だったという。
つまり、東方浄瑠璃世界は「日本」を指しているのだ。

では、薬師如来の正体は何か……。
薬師如来は病を癒やす仏で、その周囲には「十二神将」が取り巻いている。
これは、人々の病気を治したイエスの周囲に、12使徒が取り巻いていたのと同じ構造である。
つまり、薬師如来の正体も「イエス・キリスト」だったのだ。
阿弥陀如来と薬師如来の違いは、阿弥陀仏が来世での救いを表したものであるのに対し、薬師如来は現世での救いを担当する仏であるという事である。

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また、念仏宗が他力本願的なのに対して、『法華経』は自力本願を説く。
しかし、題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば救われるという教えは、やはり念仏宗と同じ他力本願以外の何ものでもない。
南無とは「帰依します」「信じます」という意味で、題目は「法華経を信じます」という意味である。
しかし、『法華経』が何かを知らないのでは、信じる信じない以前の問題である。

『法華経』は西暦50〜150年にかけて、インドで複数の人物によって記された経典だが、それはイエスの使徒トマスがインドを伝道した直後だった。
「ヨハネの黙示録」と『法華経』の類似性については既に述べたが、久保有政氏によると、『法華経』のルーツは「ヨハネの福音書」だという。
トマスがインドで伝道した「ヨハネの福音書」や「ヨハネの黙示録」が、仏教バージョンに焼き直しされたのが『法華経』だというのである。

トマスはインドで「トマ」(Toma)と呼ばれており、それがグリムの法則で転訛してダーマ(Dharma=ダルマ)になったと主張する。
定説では、達磨大師は6世紀の人物だとされているが、異説や矛盾点が多く、真相は謎のベールに包まれている。
達磨大師の容貌はユダヤ人の特徴があると指摘されているが、達磨は南インド出身だと言われている。
そこはトマスの宣教地であった。
そして、達磨はインドから中国に禅を伝えた人とされているが、トマスもインドから中国へ伝道に行っている。

イエスが所属していたクムラン宗団は、瞑想や断食など仏教的な修行をしていた事で知られており、イエスもそれによって悟りを開いた。
故に、原始キリスト教には瞑想の習慣があった可能性は高く、トマス(達磨)が禅宗の祖とされたとしても不思議ではない。
また、禅宗において達磨の忌日は10月5日だが、仏教では死亡前日に仏事を行う習慣がある為、本当の命日は10月6日であると考えられている。
この日は、ギリシア正教会の「トマスの招天日の祝日」と一致している。
更に、ダルマ人形は「七転八起」を表したものだが、トマスは七転八起の人だった。

これはもともと『旧約聖書』の思想である。

「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ」
(「箴言」第24章16節)

つまり、『法華経』の成立のキッカケは、トマスが伝道した「ヨハネの福音書」と「ヨハネの黙示録」にあり、また彼は「禅宗の祖」として崇められるようになったという事である。
尚、インドで成立した『法華経』は後に、鳩摩羅什(344-413)によって漢訳されたが、かなり自分の好みを入れて創作したらしく、原典のサンスクリット語の『法華経』とは内容が随分と食い違っているという。

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当のインドでは、『法華経』はおろか、仏教そのものが衰退し、ヒンドゥー教の一派のような位置づけとなっている。
そして、無神論的な原始仏教が、釈迦を「久遠実成の仏」として崇拝する大乗仏教に発展したのは、キリスト教の影響だったのである。
仏教は原始キリスト教を吸収し、ヒンドゥー教は仏教を吸収したのだ。
そして、アマ族が日本に伝えたヒンドゥー教(シンドゥ教)がカンナガラの道と習合して「神道」となり、後に原始キリスト教が習合して「神社神道」が形成された。
その後、大乗仏教が日本に輸入され、神道と対立した。

太田龍氏は「聖徳太子の著作として伝えられる著述、文章の中で神道を根本とし、その上で儒教と法華経を頂点とする仏教を消化すると記されている」と述べているが、久保有政氏も「聖徳太子は基本的に神道派で、熱心な崇仏派ではなかった」と述べている。
やがて「神仏習合」に至るものの、明治時代に「神仏分離令」が出されたが、それまでの間に大乗仏教は神道の影響を受けて日本独自の発展を遂げていった。
その後も、日本仏教はキリスト教の影響を受けながら発展していった。
中国の大乗仏教は共産主義によって壊滅状態にあり、日本は『法華経』を信奉する唯一の国となった。

太田龍氏が言うように、日本で発展した『法華経』は『法華神道』であり、最澄が開いた比叡山の天台宗で研究され、天台宗で『法華経』は「根本経典」に定められた。
そして、比叡山の学僧だった法然、親鸞、道元、日蓮なども『法華経』の研鑽を積み、やがて各宗派の祖師となった。
つまり、鎌倉新仏教の各宗派は、日本天台宗の枝分かれだと言っても過言ではない。
真言宗の空海も晩年に、東大寺で『法華経』の講義をしたりしているが、最後まで『法華経』と深い関係を持ったのが、曹洞宗の道元と日蓮宗の日蓮だった。
日蓮に至っては、『法華経』を釈迦の唯一の教えとし、「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」を叫んで他宗を激しく非難した。

しかし、既に見て来た通り、『法華経』は西暦50〜150年の間に、インドで「ヨハネの福音書」と「ヨハネの黙示録」が焼き直しされたものである。
では、何故『法華経』が釈迦の唯一の教えとされたのか。
それは、大乗仏教自体がが「イエス・キリスト」の影響を受けて構築された宗教だからである。
イエス・キリストが「永遠」の神であるように、釈迦も「久遠実成の仏」として位置づけられたからであり、釈迦の死後500年経ってから書かれた「ヨハネの福音書」+「ヨハネの黙示録」の焼き直しも、釈迦の教えとされたのである。
だが、『法華経』は生前の釈迦自身の教えではなく、釈迦の唯一の教えなどというのは明らかに間違っている。

『日月神示』には、次のように示されている。

「神から来た教えなら他の教えとも協力して共に進まねばならん。
教派や教義にとらわれるのは邪の教え。
他の神を拝してはならんという、そなたの信仰はそれだけのもの。早よう卒業結構」


「シルバー・バーチ」は次のように語っている。

「各宗教はやがて悟るだろう。
各宗教は神の真理の一部ずつをもっていて、他の宗教の核心は、また自宗の貴重な本旨と矛盾するものではないということを」


『聖書』は様々な年代の預言者、またはその使徒によって書記された書物の集大成である。
『聖書』を教典とする宗教は、その解釈の違いによって宗派が分かれている。
ところが、『仏典』の場合はそうではない。
故に、仏教宗派は偏狭と言えば偏狭である。
仏教も、全宗派の経典の集大成を『仏典』とする仏教にするべきであろう。

日蓮宗・日本山妙法寺の藤井日達上人は、宗教宗派に囚われることなく、国内外の平和運動に積極的に関わり、「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」を開催した。
だが、どのような宗派も独善的・排他的になりがちで、人類史は宗教戦争の歴史と言っても過言ではない。
軍事戦争の根底にも「宗教や思想の違い」があり、宗教統一及び宗教破壊をする事が「世界平和の実現の第一歩」だと言える。
対立抗争が起きる原因は、教義や思想の違いと共に、宗教が組織化していることにある。
宗教団体が、教祖とそれに従う信者という関係で成り立つ以上、大なり小なり「カルト集団」である。

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出口王仁三郎は、宗教を破壊する為に「大本弾圧」を政府に起こさせ、宗教破壊の型を行なった。
実は、日蓮の思想も「宗教破壊」だったのである。
新興宗教の中には「日蓮宗」も多いが、様々な勝手な解釈や独自の思想が加わる事により、日蓮宗同士の対立も多い。
特に、日蓮宗は原理主義に走りやすい為、現在は「宗教の戦国時代」だと言える。

『日月神示』には、次のように示されている。

「この道は道なき道ざぞ。
天理も金光も黒住も、今は魂が抜けておれど、この道入れて生き返るのぞ。
日蓮も親鸞も耶蘇も何もかも脱け殻ぞ。この道でたま入れてくれよ。
この道は・ぞ。○の中に・入れてくれと申してあろうが。
臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ。
・入れてくれよ。○を掃除しておらぬと・は入らんぞ。
今度の戦は○の掃除ぞと申してあろうがな。
まつりとは調和(まつわり)合わすことと申してあろうがな」


○(身)の中に・(魂)が入ったΘ(マルチョン)を「身魂」と呼び、身を掃除しないと魂が入らないという。
今度の戦は身を掃除する事で、『日月神示』にはその為の食事指針も提示されているが、更に掘り下げた深い内容の記事を「神泉組1」に載せていくので参考にしてもらいたい。
もっとも、宗教には大なり小なり「食の戒律」があり、特に仏教は肉食を避ける事が基本となっている事は周知の事実である。

肉食は「殺生の罪」であり、肉食をすると心身に悪影響を及ぼす。
また、肉食によって動物霊の憑依を受ける事は、科学的な実験データからも実証されている。
これらの詳細はいずれ「神泉組1」で紹介するが、肉食をする宗教家や霊能者は、悉く偽善者だと言っても過言ではない。
意識レベルが上がって「副守護神」が改神すると、肉食は受け付けなくなるものだからである。

食欲は人間の第1の基本的本能で、「食」は「人が良くなる」と書く通り、「食育」があらゆる教育の基本である。
従って、人間性の向上を説く宗教が「食」について説くのは基本的の基本であり、「食」について説かない宗教は邪教である。
極論言えば、宗教は「食に始まり、食に終わる」と言っても過言ではない。
私は自らの経験によって、その事を深く悟っている。
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2010年11月18日

隠密法華経=般若心経の大予言「2020年の黙示録と4大メシア」の謎

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柳川氏は「2020年初めから2200年の180年間の準備期間(改変や混乱)を経て、世界にユートピアが実現するだろう」と予測している。
ユートピアとは、『日月神示』のいう「ミロクの世」であり「ヨハネの黙示録」が予言する「至福の千年王国」である。
では、2200年までは「ミロクの世」にならないのだろうか。
また、『日月神示』では「末代動かぬ光の世となる」としているのに対し、聖書は何故「千年王国」と言うのか……。

聖書では、人類の歴史は6000年+1000年(至福千年王国)の7000年を1サイクルとしているからで、神は天地創造から6日目にアダムを創り、7日目を安息日としたことに由来する(神の1日は人間の千年)。
この7日目の安息日が「千年王国」であり、ヴェーダでいうところの「クリタ・ユガ」である。
アダムはセトが生まれてから800年生きて930歳で死に、セトの寿命は912歳、エノシュは905歳、ケナンは910歳、マハラエルは895歳、イエレドは962歳、その後、エノク、メトセラ、レメク、ノア950歳、セム600歳、アルパクシャド438歳…と計算していくと、アダムは約6000年前の人間で、アダムから1656年後の紀元前2344年にノアの大洪水が起き、アダムの楽園追放からイエスの時代までが約4000年だということになり、現在はアダムの時代から約6000年が経ち、7000年目に突入しようとしていることになる。

だとすると、計算上は聖書概念の1サイクルと一致するが、そうなるとアダムはシュメール人だったことになり、その他の矛盾が連鎖的に続発する。
重要なことは、約7000年というサイクルの概念である。
これを、オコツトのいう6500年サイクルに当てはめると、西暦2013年の約6500年前にノアの大洪水があり、約1万3000年前にアダムの誕生したことになる。
余談だが、セムの生きた時代は、日本では縄文中期のウガヤ王朝時代とされ、日本の古史『上記』に登場するウガヤフキアエズ初代天皇も600余歳まで生きたという記述がある。

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さて、オコツトによると、6500年サイクルの後に1300年間の原始的な意識状態を経験する。
約13000年前のアダムも、1300年間の原始的な意識状態を経た後に知性が発達したことになる。
だが聖書の記録では、アダムは1300年も生きていない。
つまり、この1300年間の出来事は、スウェデンボルグのいうように、プリアダマイトがアダムになったことを意味するのだ。
そして、アダムはエデンの園を追放された。
ということは、その時代はエデンの園の時代、即ち神の7日目である「千年王国」だったことを意味する。
つまり、1週間の始まりが日曜日であるように、1サイクルの始まりは7日目の千年王国だと考えるのが自然なのだ。

そして楽園追放後、新たに1日目が始まり、6日目の終わりにノアの大洪水が起こり、その後の1日目(1300年間)は7日目の安息日に当たり、西暦2012年が6日目の終わりに当てはまる。
サイクルとしては、やはり2013年が7日目の安息日、即ち「千年王国」の始まりというべきなのだ。

その証拠は……。
「マヤ暦」と「ヨハネの黙示録」が対応しているという説を以前お伝えした通りである。
また、ノストラダムスのいう「20年の月の統治」は1993年から始まっていると考えらる。
つまり、2013年から「7千年期=千年王国」が始まることになる。
では、2013年以降に生き残った人類は、1300年間の原始的な意識状態となるのかといえば、今回はそうならない。
それが、物質文明完成後の霊肉一致の仕組みであり、今回は滅亡した3次元で生き残るのではなく、5次元の変換人に進化するのだ。
そして、ミロクの世になってから約1000年後に、今一度の次元変動が起きて地球が大完成するだろうということを述べた。

だとすると、それは西暦3013年に起こることになる。
オコツト説に従えば、西暦2013年の1300年後の3313年に起こることになる。
ノストラダムスはセザール宛の手紙に「我が予言は3797年まである」と述べているが、「ヨハネの黙示録」でも予言されている通り、これは千年王国の終わりの最後の次元変動後の新世界を予言したものだろう。
「ミロクの世」の語源は、釈迦が予言した弥勒下生から来ているが、『観弥勒下生経』にも「弥勒の世は千年続く」ということが明記されている。

では、柳川氏のいう「ユートピア」とは一体どのような世界なのだろうか。
それは日蓮の『如説修行抄』の予言にある通り「法華経化の時代」、一切の災難や病気や戦争がなくなり、真の平和が訪れるという。
では「法華経化の時代」とは何か……。

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柳川氏は次のように説明している。

『日蓮の言葉をそのまま受け取って、「万民一同に南無妙法蓮華経を唱えること」と勘違いしてはいけません。
法華経もまた一つの方便であり、そのことは法華経自身が明らかにしています。
法華経の一大主旨は、一切の宗教の否定にあるので、法華経やその代表的人物である日蓮が他の宗教を否定したからといって、了見の狭い教えであるとか人物であると考えるのは、とんだ誤解というものです。
法華経はあらゆる宗教を否定し終えた時、宗教としてのその役目が完了するのです。
そして、最終的にそこに残るものは何かといえば、ただ人間の自然体のみなのです。
それが真の意味での法華経化なのです』


なるほど、これで日蓮の謎は氷解した……やはり、宗教を否定した宗教家「出口王仁三郎」と同じなのだ。
このことは日蓮の信条である「王仏冥合」に表れており、それは仏教の教えが宗教というカテゴリーではなく、人間の全ての言動に自然にとけ込むことを意味する。
即ち、人間が悟りを開いた状態を指す。
『日月神示』では「真釣り合わせ」という言葉で説かれ、法華経化について説かれている。

「真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ」

また、ユートピアの文明について、柳川氏は次のように述べている。

「科学の発達やその結果は、当選その時その時としては好ましいものばかりとはいえません。
あらゆるものの発展の過程においては、そうした副作用や副産物を伴うものなのです。
だからといって、科学技術の発達という現実を一切否定して人類が原始の姿に戻ろうとしたり、あるいは都合のよい部分だけ受け入れようとしても無駄なことでしょう。
私自身もこうして予言の解読に携わっていると、現実肯定というか、少なくとも人類共通の無意識というものは全てを知り尽くしており、着々とその方向に進んでいるということがよくわかるのです…
科学技術が高度に進歩して人間の心のあり方の方をそれに合わせざるを得ないような、正しい科学の時代がやってくるということなのです。
これはコンピュータが人間を支配するというような本末転倒な意味とは違います。
一言でいえば、心の働きと科学技術の間に密接な繋がりがあるということなのです。
ミクロな世界の研究がマクロな世界の研究と一本化されるといったら、皆さんにもわかっていただけるのではないでしょうか。
もっと具体的にいえば、心の働きもまた一種のエネルギーであるということです」


科学技術をも巻き込んだ「王仏冥合」とイメージすれば良いだろうか……。
現代のIT社会においても、「ユビキタス・コンピューティング」という同様の概念が存在する。

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岡田光興氏は『フォトンベルトと日月神示』の中で、この事を述べている。

『ユビキタスとは、ラテン語で「遍在」を意味し、「神は遍く存在する」という文脈で使われる言葉である。
マーク・ワイザー博士の提唱したコンピュータの使い方の最後のステップは、「コンピュータを使っていることを意識しなくなる人間中心の社会」である。
これを日月神示の示す来たるべき社会に当てはめれば、「神がいることを意識しなくなる神人共同体の社会」というべきであろうか。
いずれにせよ、ユビキタス社会の急速な進展は、日本人に内在する精神性の発揚にとって決して不利ではなく、よりその状況を有利にさせるものであると考える。
そしてそれはITと人間の新次元融合社会の到来を予感させるものであろう』


半田氏はいう。

「オコツトはかつて、オリオン的統制の出現の為には、プレアデス的統制がその限界点まで成熟しなければならないと語った。
この言葉を分かりやすく翻訳するならば、科学がその臨界点に到達する時、物質的知識は全て精神的知識へと変態を起こすということだ」


そして柳川氏の解読によると、2020年〜2200年にかけて、約45年毎に1人のメシア、即ち180年の間に四大天王よろしく4人のメシアが登場するという。
それは宗教家や科学者などではなく、それらを超越した天皇家と関係のある政治家で、大科学者でもあり、人類を正しい方向に導く為に必然的に現れるという。
このメシアは、法華経で「八大龍王の娘、年はじめて八歳なり」と暗示されている。
「八」とは……「イエス・キリスト」であり、また『素戔嗚尊』の数字である。
つまり、王仁三郎が予言するように、素戔嗚尊の御霊(キリスト精神)を持った救世主が現れるのだ。

法華経に従えば、「八」はダラニ品第二十六の「鬼子母神・十羅刹女」で、その代表は第9番目の「皇諦女」である。
それは鬼神であり、素戔嗚尊であることを裏付けている。
そして、メシアが何故「8」であり「9」なのか。
ダラニ品第二十六の「二六」は、2+6=「8」で、Σ26→「9」となるからだ。
「8」は「出雲族」で、「9」は封印された真の初代天皇「ニギハヤヒ」である。
そして鬼子母神の縁日は「8日」で、八幡大菩薩の縁日「1月8日」にも符合する。

更に、1月8日は新天皇成立日(昭和天皇1月7日崩御)でもある。
そして法華経には、八歳の童女は「変成男子」と示されている。
つまり、王仁三郎がそうであったように、女性の魂を持った男を意味する(※性同一性障害とは異なる)。
これは、皇室から出雲族の血を引く天皇が登場することを示唆しているのではないだろうか。

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柳川氏によると、2020年1月8日に日本から真のメシアが登場し、そのメシアは1993年1月8日生まれの26歳(八歳の童女の数霊上の意)で、ダラニ品が特別扱いする「第九皇諦女」の文字が暗示する通り、天皇制と大いに関係しているという。
そして、この世界(西洋と東洋)を真に統一することは「9」のメシアにしか出来ないとしている。
つまり、世界天皇の登場である。
それが1993年生まれかどうかはともかく、2020年に登場するというのはほぼ確実とみていいだろう。

『日月神示』が示す通り、2020年は光の世の完成だからであるが、柳川氏は次のように述べている。

『276文字般若心経から56文字を削除して「220文字般若心経」を導いたのは、音霊、言霊、色霊の上からの理由ですが、本当はそれだけではありません。
釈迦誕生より560年後にイエスが誕生したことを考えて、2760から560を引くと「2200年」が現れてくるのです。
最後のメシアはこのとき出現し、その時こそ真のユートピアが実現するのです。
そして最終的に我々にとって最も大事なメシアは、釈迦滅後2500年に出現します(法華経中たびたび「わが滅後5500歳において」と出てきますが、仏教における5500とは5×5×100=2500の意味です)。
最新の学説によると釈迦は紀元前480年入滅が最も有力視されていますから、2500から480を引くことによって「2020年」が浮かび上がってくるのです』


だが、次のようにも述べている……。

『その間のメシアたちは一部の人々から大きな迫害を受け、世の中は大混乱します。
人類にとってこの180年間こそ、まさしく恐るべき恐怖の時代となることは間違いありません。
いうまでもなく、平安な時代に決してメシアは出現しないし、またその必要もありませんから、自らがメシアたる自覚を生じる必要がないのです。
また同時にこの180年間は、いわゆる「666は悪魔の数」といわれるように、三災がイヤというほど起こるでしょう…』


果たして……2020年以降、どのような世界になるかは人類の意識次第であろう。
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タロットカードと法華経に秘められた数霊の謎

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『日月神示』の解読で、最終的に2020年にミロクの世が完成することを述べたが、この2020年は平成32年で、言霊学上「救いの御船(三十二音)」の年だとされている。

「なりなりなりて十と開き、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生まれるのであるぞ」(日月神示)

それは「富士(二二)と鳴門(成十)の仕組」の完成数が、22+10=32と解釈することもできる。
ゲマトリア(カッバーラ数秘術)と数霊学は、若干の解釈の違いはあるが、宇宙の時空的性質から成り立った概念である。
「22=2+2=4」で、4は一般的には「死」に通じることから不吉な数字とされ、西洋で不吉な数字とされる13も「1+3=4」となる。
グランドクロスが形成する4つの星宮、即ち聖書に象徴される神の戦車「メルカバー」でこの世の四方が縛られ、殺戮の天使によって人類の三分の一が処刑される。

だが、表があれば裏がある。
この4つの殺戮の天使が、仏教でいう「四天王」という4大守護神に相当する。
数霊で4には「蘇生」の意があり、「水瓶座」のシンボルナンバーだとされる。
そう、死と蘇生はワンセットなのだ。
この「22」は数霊で大幸運数とされ、元は「生命の樹」の22本のパス(径)が由来となっている。
そこからタロットカードの大アルカナカードと呼ばれる22枚のカードが生まれ、また古代ヘブライ語のアルファベット22文字のルーツにもなっている。

また、以前解説した「ゾハル」は「輝き」「栄光」という意味だが、この単語が『旧約聖書』に22回登場するという。
カッバーラにおいて「栄光」は「8」で表され、その理由は22+4=26、2+6=8で、現在の英語のアルファベット26文字に発展したとされている。
また、26に22を足すと「48」、つまりイロハ四八音(ヨハネ)となる。
「八」は「素戔嗚尊」の象徴数であり、また「末広がり」を意味するが、これもやはり対比する裏の意味があり、西欧物質文明即ちスサノオ文明の「八方塞がり」を意味している。
この表裏一体によって発展し、「八」は1+2+3+4+5+6+7+8=36、3+6=9、つまり「ニギハヤヒ」を象徴する「九」を表に出すことを暗に秘めているのだ。

鳴門(成十)の「10」は完成数で、基本的には1+0=1で「1」となり、アリオンの時に説明した「カミ」「スメラミコト」という意味を持つ。
1(・)を原初の神だとすると、10(Θ)は神の完成といえる。
そして、22が「生命の樹」のパスの数であれば、10はセフィロト(円)の数である。
『日月神示』でも「富士(二二)と鳴門(成十)の仕組」が重要な事と位置付けられ、「22」と「10」がキーワードとなっている。

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では、数霊に造詣の深い柳川昌弘氏の著書『般若心経の暗号』をもとに見ていこう。
柳川氏によると、大幸運数(22)と大完成数(10)の積としての数が22×10=(220)で、220は数霊的に破壊と建設が同時に起こる「大完成の完成」を意味するという。
Σ220=2431は1、2、3、4の和で数霊は「10」、Σ22も同様に「10」となり、これを「ダブル10」と呼び、特別な意味を持つとされている。
法華経は二十八品から成っているが、「28」も2+8=10、Σ28=406、4+6=10で「ダブル10」の数霊となっており、これと結び付いているのが般若心経なのだ。

般若心経の経題「摩訶般若波羅密多心経」は10文字で、最後のダラニ神呪「ギャーティ……」の部分が漢字で「掲諦掲諦波羅掲諦波羅僧掲諦菩提僧婆訶般若心経」の22文字となっており、経題とダラニ神呪の関係が「10」と「22」、即ち「富士と鳴門」を暗示し、その積は「220」となる。
尚、タロットカードは本来、22枚の大アルカナカードと56枚の小アルカナカードで構成されているが、アクエリアス(水瓶座)の時代に移行しつつある現在においては、56枚の小アルカナカードは無意味とされ、22枚の大アルカナカードのみが使用されている。
般若心経も同様で、276文字から成る般若心経から中間の「56文字」が小乗仏教説となっており、この56文字を削除した「220」文字が大乗仏教の般若心経となったのだという。
余談だが、ここでも56(山本五十六)の数字が登場する。

大日教も二十二品から成り、この教えを原典としたのが空海だが、空海は般若心経を220文字(数霊4)とせず、経題を「心経」とし、最後の「般若心経」の4文字を削除した。
つまり、般若心経の276文字から12文字を削除し、パイシス(魚座)を象徴する数霊3の、264文字の「般若心経」としたのだ。
だが、パイシスとアクエリアスがオーバーラップする現在、法華経は数霊4となる時代に入った。
法華経二十八品の「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」の16文字と、その中の神呪の2ヶ所に法華経の大予言の秘密が隠されているという。

哲学者であり数学者でもあったピタゴラスは「私の親友は220と284である」と語っている。
220を素数に分解して合計すると284となり、この2対の数字の関係は友愛数と呼ばれているが、「220文字の般若心経」と「284文字の般若心経」にも符合している。
今ではオイラーによって62対の友愛数が発見されているが、その最小数が220で、また友愛数同士の数霊を足すと必ず「9」になるという特徴を持つ。

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さて、柳川氏によると般若心経の276文字は、釈迦生誕から2760年後を意味し、「西暦2200年」に予言が成就するということが般若心経の密意だという。
換言すれば、2760年から2200年を引いたのが560年、そこから80年(釈迦の生存年齢)を引いた480年が、釈迦入滅からイエス生誕までの空白期間における小乗仏教の時代だという暗号になっている。
古来より、法華経以外の経典に法華経の神髄が秘められているとし、「隠密法華経」と呼ばれていたが、今まで明らかにされることはなかった。
この「220文字般若心経」こそが「隠密法華経」であることが、柳川氏によって解明された。

220文字般若心経は、内容的に6つに分解することができる。
@経題10文字……数霊10
A次の25文字……数霊7
B次の58文字……数霊4
C次の36文字……数霊9
D次の69文字……数霊6
E神呪22文字……数霊22

これが何を意味するのか……。
数霊22は、古代ヘブライ語のアルファベットの数であり、「生命の樹」のパスの数である。
この「生命の樹」は、カッバーラの4神の名を秘めているという。

@ヨッド(Y)……数霊10
Aへー(H)……数霊5
Bヴァブ(V)……数霊6
Cへー(H)……数霊5

即ち「YHVH(ヤハウェ)」であり、数霊は10+5+6+5=26、2+6=「8」であり、ヤハウェそのものを意味する「26」が現在のアルファベットの文字数となったという。
Σ26=351(数霊9)となるが、これらの数字は何を意味するのか……。
「8」は法華経全八巻の第八巻目を指し、その中の「妙法蓮華経ダラニ品第二十六」の「26」を示し、その文字数13は数霊4、ダラニ品は5種類のダラニ神呪で、計90呪が説かれているというのがΣ26(数霊9)の意味なのだという。

カッバーラ的に、四位一体の最高神「ヤハウェ」は、法華経ダラニ品の最後に登場する「鬼子母神・十羅刹女」と同一神であり、共に鬼神としての性格を持つ。
鬼子母神と十羅刹女は法華経の守護神・四大天王の四位一体の神名で、十羅刹女は鬼子母神の十界(心の全内容)の意で、「ヤハウェ=四大天王=鬼子母神=十羅刹女」ということになる。
鬼子母神は他人の子を喰った鬼女で、改心する時に名付けられた名前だが、これは勿論方便であって、ヤハウェとルシファーが表裏一体であることを意味する。
鬼子母神は右手にザクロを持っているが、そのルーツは古代オリエント・ギリシャの彫刻にもある「ザクロを持つ女神」で、豊穣の大地母神デメテルを神格化したものであり、これがインドの豊穣の神ハーリティー(鬼子母神)に変形した。
「鬼」が付く以上、鬼子母神は素戔嗚尊(ルシファー)であり、豊穣の神=大地母神とされていることからも、その正体は豊受大神=「国常立尊」なのだ。

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更に「法華経ダラニ品」の数霊は、次のように分類される。
@陀羅尼品の経題13文字……数霊4
A広目天の神呪43句……数霊7
B持国天の神呪13句……数霊4
C増長天の神呪6句……数霊6
D毘沙門天の神呪9句……数霊9
E鬼子母神の神呪19句……数霊10

そして柳川氏は、ダラニ神呪と220文字般若心経の数霊が一致していることを突き止めている。
ダラニ神呪の数霊(7、4、6、9、10)の総計は90=「9」で、220文字般若心経の神呪の最後の「般若心経」の4文字を除いた18文字(9)と一致し、除いた経題「般若心経(4)」と「妙法蓮華経陀羅尼品第二十六」の13文字(4)と一致している。
そして一部の順序は前後するが、220文字般若心経と法華経ダラニ品の数霊は、次のように見事に一致する。

@経題10文字(10)……鬼子母神呪19句(10)
A第一文段25文字(7)……広目天神呪43句(7)
B第二文段58文字(4)……持国天神呪13句(4)
C第三文段36文字(9)……毘沙門天神呪9句(9)
D第四文段69文字(6)……増長天神呪6句(6)
E神呪18文字(9)……全神呪90句(9)
F神呪(経題)4文字(4)……経題13文字(4)
G全神呪22文字(22)……経題と全神呪(22)

この対比の中で、鬼子母神呪が最初に来る事と、CとDが前後している事には深い理由があり、神道の数霊とも合致する。
重要なことは、220文字般若心経の要である18+4=「22」の神呪と、ダラニ品の全神呪(9)と経題13文字の合計9+13=「22」の一致であり、ヤハウェを構成する4神の合計数霊(8)と、法華経ダラニ品第二十六の四大天王の合計数霊(8)が一致していることである。
これ以上のことは省略するとして、いよいよ本題に入ろう。
posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 14:40| Comment(3) | カテゴリ未決定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

法華経の究極奥義「般若心経とアセンションの真実」

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法華経の「見宝塔品」に、多宝如来が乗った「宝塔」と呼ばれる葉巻型UFOらしき謎の乗り物に釈迦が乗せられ、般若波羅密を授かったことが記されている。
これは、謎の「柱」に導かれ、モーゼがシナイ山で十戒を授かったことに似ている。
般若波羅密とは「完全な知恵」を意味し、葉巻型UFOの搭乗員(多宝如来=アルザル人=恐らくイスラエル10支族)から授かった啓示で、その源泉は絶対神ヤハウェ(ルシファー=イエス・キリスト)の預言なのだ。
長くなるので省略するが、重要なことは般若波羅密の内容である。
半田氏の実兄氏は、日蓮哲学の中にタキオン理論の中枢があるという。
勿論それも間違いではないと思うが、法華経の究極奥義は般若心経に集約されていると言っても過言ではない。

理由はまず、「見宝塔品」に示される宝塔と虚空会の関係である。
虚空会は末法の世における究極の救済である。
だが、これを単なる比喩的な物語だと流されているようだ。
確かに、普通はこの部分の重要性に気付かないだろう。
いいだろうか、法華経は仏典の一部である。
1つの宗派は、パズルのピースの1つだと言ってもいい。
当然のことだが、全体を見ないと全体の構造も骨子も分からない。
特に、特定の宗派に属する人たちは、この事を全く理解していない。
更に言えば、この世に存在する様々な分野はそれぞれ枝葉であり、全体で1つを構成して総体となっている。
従って、宗教という枠に囚われると真理から遠ざかるケースが往々にしてある。

そもそも宗教とは何か。
宗教には、一般大衆に向けられた顕教と、一部の人のみに伝承される密教がある。
顕教とは表向きの教えで、早い話が、この世の秩序を守る為の道徳のようなものだといえる。
密教とは文字通り「秘密の教え」で、象徴に隠された本質を知る知恵という言い方ができる。
即ち、顕教で伝道されている教えは、イエスや釈迦、マホメットなどの真理を悟った聖者が説いた教えだが、教えはあくまでも教えであり、教えを勉強したり実践したりしても、それが直接的に真理を悟ることには繋がらない。
真理を悟るということは、本質、真相を知り、且つ体験することであり、それ自体が意識進化を意味する。
逆に言えば、意識進化によってのみ真理を悟ることが可能で、真理を悟ると同時に、顕教の教義を理論理屈抜きに知ることになる。

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聖者が説いた「教え」を左脳で理解し、意識的に実践することを無意味だと言っている訳ではないが、それがダイレクトに意識進化に直結するのではないということだ。
場合によっては、自分の善行に自己満足し、知識を知恵と思い込み、また自分を善とする自覚から、他者を劣ったものとして見下す傾向になる人が少なくない。
つまり、『旧約聖書』が最大の罪とする「慢心」に陥り、知らず知らずに「死の樹」に落ちる危険性があるのだ。
また、教えを学んで実行しても、日常において強欲、傲慢、怒り、嫉妬など……悪想念に満ちた生活をしている宗教家は少なくない。

つまり、順序が逆なのだ。お分かりだろうか。教義は理論理屈なのだ。
意識進化の結果として真理を悟ると、宗教など不要になることはご理解頂けるだろう。
オコツトが、宗教や他のチャネリングで語られるような「生き方の指針」的なことを殆ど説いていないことも、それが理由だと思われる。
私は別に膨大な仏典の全てをつぶさに研究した訳ではないが、重要なことは全体像と核である。
まず、「法華経」が「ヨハネの黙示録」に類似する終末予言であることはお分かり頂けたと思う。
そして、人類最後のビッグイベント「虚空会」が最大のテーマとなっている。
だが、仏典を文字通りに解釈したり、経文を唱えたところであまり意味はない。

少し話を戻すが、葉巻型UFOはマザーシップであり、無数の小型UFOを搭載している。
「大無量寿経」に、次のような描写がある。

「そのうち撒かれた花は、空中に留まって天蓋となり、燦然と輝き、香気は辺りにあまねく香る。
この天蓋には周囲4百里のものから、次三千世界を覆う程のものまである。
そしていずれも、あとのものが現れるにつれて、前のものから順に消えていく」


空中に留まって燦然と輝く天蓋とは小型UFOを彷彿させる。
小型とはいえ大きさはピンキリで、私も巨大な円盤型UFOを目撃している。
ただ、仏典は大げさな表現が多く、周囲4百里のものから三千世界を覆う程のものがあるというのは明らかに誇張だ。
そして前のものから順に、マザーシップの中に消えていくことが描かれている。
これがUFOでないというのなら、この空中に停止する謎の巨大物体の正体を教えてもらいたい。

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「般若波羅密教」には次のようにある。

「その時、それらの花はダルマウドガタ菩薩の上方に上がり、花の楼閣を造りました。
それら種々の色の花や金銀の花は、空中に天蓋の如く止まりました」


「楼閣」という事は、人が入っていることを意味する。
それが空中に停滞しているのだ。
「空中楼閣」を辞書で調べると、「1.根拠のない架空の物事。2.蜃気楼」とある。
仏典にそんな無意味な事が書かれている訳がない。
しかも様々な経典の随所に、UFOとしか思えない記述がある。

そして次のように続く……。

「その楼閣の真中に七宝でできた箱が置かれており、その中に般若波羅密が入れられていた。
それは黄金の紙に、溶けた瑠璃で書かれていた」


「般若波羅密」とは知恵の完成であり、早い話がカッバーラの奥義であり、七宝で出来た箱に入っているということは、如何に大切なものかが窺える。
そういえば、レーリッヒが描いたシャンバラの使者は、大切そうに小箱を抱えていた。
同様に、江戸時代のUFO遭遇事件でも、黒髪の女性が大事そうに小箱を抱えていた。
記録によると、着陸中のこのUFO機内に描かれていた奇妙な図形は、ロズウェルで墜落したUFOの機内に描かれていた図形とほぼ同様である。
そしてアメリカ軍は、墜落UFOの中で1冊の本を発見し、見た目は金属のようだが手触りは紙のようで、破れない素材で出来ていたという。
それは、黄金の紙に溶けた瑠璃で書かれた「般若波羅密」を彷彿させる。
その本の表紙には、カッバーラの奥義の象徴図形「生命の樹」が描かれていたという。
これは、『知恵』を意味する『般若波羅密』以外の何物でもない。
この本は古代ヘブライ語に似た文字で書かれており、解読の結果『聖書』であることが判明したが、歴史の部分が異なり、地上の聖書がイスラエル2支族の視点で書かれているのに対し、エイリアン・バイブルは10支族の視点で書かれていたということだ。

釈迦(シャーキャ)族はイスラエル10支族のガド族の末裔で、釈迦はその預言者である。
それ故か、釈迦が誕生した時の記録にもUFOの祝福としか思えない描写がある。
いずれにせよ、釈迦は宝塔に乗って般若波羅密を授かった。
「般若波羅密=エイリアン・バイブル」とは断定できないが、エイリアン・バイブルの奥義が「般若波羅密=生命の樹」であることは想像に難しくない。
それは、末法の世で虚空会によって救われる方法が示されたものであることは間違いないだろう。

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「聖弥勒発趣経」には、次のような釈迦の言葉がある。

「トウシタ天は、五百万億の神々の子たちが存在し、深い布施のパーラミター(般若波羅密多)を実践するだろう」

やはり、般若波羅密は仏教の奥義だといえる。
では、般若波羅密とは何か。
それは定かではないが、般若心経の根幹となるものであることはほぼ間違いない。
それは同時に、仏教の根幹にして究極奥義である。
では、般若心経とは何か。
大般若経600巻に法華経や華厳経などを取り入れて、そのエッセンスを抽出して276文字にまとめたものだとされる。
ところが三蔵法師は、インドに出発する前に、夢枕で観音菩薩から般若心経を授かっている。
内容自体は他の仏典でも説かれていることで、一見して特別な内容ではないが、それ故に宗派問わず導入されている。

つまり、カッバーラを知らない顕教の信者は宗派同士で中傷し合っているが、般若心経は全ての宗派を統一することができるのだ。
それは、般若心経が根幹となるものだからである。
従って、奥は深く、コンノケンイチ氏も『般若心経の宇宙論』という本を出しているが、「色即是空・空即是色」が大真理であり、見えるものと見えないものは同じだということである。
これを知識ではなく、体感することを「天人合一」「宇宙即我」という。
つまり、宇宙と完全に一体化することで解脱し、終末において肉体の削除が起こって変換人に進化するのだ。

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誤解のないように述べておくが、「虚空会」とは単にUFOによる選民救出だけを意味するのではない。
本質的な意味は虚空、即ち高次元空間に融け込むことであり、これこそが「アセンション」の真相なのだ。
この事を比喩的に「虚空蔵菩薩(明けの明星=ルシファー=イエス・キリスト=弥勒菩薩)と会う」と言い、略して「虚空会」というのである。

「キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初に蘇生されるのです。
その後、生き残っている者が、彼らと共に虚空の雲の中に一挙に引き上げられて主に会うのです」

(新約聖書「テサロニケ人への手紙・第一」4章15〜16節)

「虚空会=天人合一=アセンション」

それを導くのが、般若心経が説く「色即是空」の認識であり、「宇宙即我」の天人合一の境地であり、オコツトが説く「空間認識の反転」に通じる。

そして「般若心経」は次のように締め括る。

ギャーティ ギャーティ(往ける者よ、往ける者よ)
ハラ ギャーティ(彼岸に往ける者よ)
ハラ ソウギャーティ(彼岸に全く往ける者よ)
ボウジ ソワカ(悟れよ、幸あれ)


色即是空を悟れば、彼岸、つまりフォーカス27(輪廻転生地点)を超えた5次元の世界に往けるということだ。
これは同時に、終末に起こる虚空会の意を含んでいる。
死んで彼岸に往くか、復活して生きながら彼岸に往くか……「一切衆生が救われる」のである。
だが、それだけでは役不足らしく、「深い布施のパーラミター(般若波羅密多)の実践」を釈迦は説いている。

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もうお分かりだろう。
以前、「ヤマタノオロチに乗った北極の赤鬼からの言霊のクリプレ」で、ジョークを交えながら述べた通り、「サンタクロース」になることなのだ。
勿論、意識的・意図的なパーラミターは本物ではなく、順序違いである。
サンタクロースはイエス・キリストである。
そして「宇宙=神=イエス・キリスト」は、即「人類」のことである。
イエスは「神の国は汝の中にある」と言った。

心臓は「心の臓」と書くが、Θマークで表される通り、神は中心に宿る原理があり、神の国は人体の中心=胸に存在する。
心臓は左胸にあると思っている人が多いが、実際はほぼ中心に位置している。
神の国、即ち天の岩戸は人間の胸中にあり、その中に魂(天照大神=イエス・キリスト)が住んでいる。
イエスよろしく、最後の審判で仮死状態となる我々人類は、胸の岩戸が開いて天照大神(魂)が覚醒し、変換人としてアセンションする。
つまり、2012年12月25日のクリスマスは、人類の魂(イエス・キリスト)の誕生日なのだ。

現在一般的に普及している法華経は、羅什三蔵が中国へ伝えて長安で漢訳した「妙法蓮華経」のことだが、羅什三蔵の師スリヤソマが「この経は東北方の一小国(日本)に縁があるものである」と予言したが、他の経典にも同様の予言があり、実際に殆ど日本のみで普及した。
それは、日本列島に封印された国常立尊(地湧菩薩)の復活と日本民族の覚醒を促すものだからだ。
玄奘三蔵はシルクロードで立ち寄った羅什三蔵の生地で、羅什三蔵が遺した般若心経の別訳に触れた。
そして法華経の最後の封印は、玄奘三蔵の般若心経に秘められた数霊でしか解けない。
勿論、他の仏典、聖書、記紀の密意も、数霊学と言霊学、即ちカッバーラでしか解き明かせない。
般若心経の密意を数霊で解読する時、壮大な未来予言が出現する。
posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 13:27| Comment(9) | カテゴリ未決定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天寿学と日蓮の法華神道

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1860年、山岡鉄舟が『武士道』を著し、「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念」と定義した。
新渡戸の『武士道』には、次のように記されている。

『仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。
ある一流の剣術の師匠は、一人の弟子が自分の技の極意を習い覚えてしまったのを見るや「私の指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らねばならぬ」といった。
禅とはジャーナを日本語に音訳したものである。
禅は「沈思黙考により、言語表現の範囲を超えた思考の領域へ到達しようとする人間の探求心を意味する」のだ。
その方法は黙想であり、私が理解している限りにおいて、その目指すところは森羅万象の背後に横たわっている原理であり、でき得れば「絶対」そのものを悟り、そしてこの「絶対」と、己自身を調和させることである。
このように定義するとすれば、禅の教えるところは、もはや一派の教義以上のものである。
この「絶対」を認識しえた者は誰でも世俗的な事柄から自己を脱落させ「新たなる天と新たなる地」を自覚するのである。
仏教が武士道に与え得なかったものは、神道が十分に提供した。
他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖への崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。
そのため、サムライの性格に忍耐力が付け加えられたのである。
神道の教学には「原罪」という教義が入り込む余地はまったくない。
それとは逆に、人間の魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、魂を神の意思が宿る至聖のところとして崇拝する。
神社には礼拝の対象物や器具が著しく乏しく、本殿にかかげてある装飾のない、一枚の鏡が神具の主たるものである。
この鏡の存在理由はたやすく説明することができる。
つまり鏡は人間の心の表象である。
心が完全に落ち着き、清明であるとき、そこには「神」の姿をみることができる。
そして参拝という行為は、かのいにしえのデルフィの神託「己自身を知れ」に通じるのである。
だが、ギリシャ及び日本の教えでは、自己知というものは人間の肉体的部分の知識、解剖学や精神物理学の知識を意味しない。
この場合の知とは道徳的な意味合いに属している。
つまり、私たちの道徳的性質の内省を意味しているのである』


そして武士道の源泉について、次のように続く。

『私たち日本人の内省は、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。
神道の自然崇拝には、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。
また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。
私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。
そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖な住処である。
私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。
天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである。
M・プートミーが英国の王室の尊厳について、「それは権威のイメージであるのみならず、国の統合の創始者であり、かつその象徴である」と述べたことが真実であるならば、私もそれに賛成する。
そのことを日本の天皇家の尊厳についていうならば、それは二倍にも三倍にも拡大して肯定しうる。
神道の教義は、日本人の感情生活を支配している二つの特徴、すなわち愛国心と忠誠心を合わせ持っている。
アーサー・メイ・クナップは「ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメサイアか、その民族そのものか、そのいずれを語っているのか、しばしば判断に窮する」と正しくも述べている。
これとよく似た混乱が我が国民の信仰の名付け方に起きていることに気がつく。
私はあえて混乱といった。
なぜなら、神道はその用語の曖昧さ故に、論理的な思考をもった人から見れば、混乱していると考えられるに違いないからである。
その上に、民族的本能や種族の感情の枠組みとしては、神道は必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要とはしていない。
この宗教(あるいはこの宗教が体現している種族感情といったほうがより正確ではないかと思う)は、武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹き込んだ。
これらのものは教義というより、その推進力として作用した。
というのは、中世のキリスト教の教会とは異なって、神道は信者にほとんど何の信仰上の約束事をも規定しなかったからである。
その代わりに単純な形の行為の形式を与えた。
厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道の最も豊かな源泉となった。
孔子が述べた五つの論理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされる遙か以前から、日本人の本能が認知していたことの確認に過ぎない。
冷静、穏和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特に相応しいものであった。
孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した。
孔子についで孟子が武士道に大きな権威を及ぼした。
彼の力のこもった、時には甚だしく人民主権的な理論は、思いやりのある性質をもった人々にはことのほか好まれた。
そのため、その理論は既存の社会秩序にとって危険であり、破壊的な作用をもたらすものと考えられ、彼の書物は長い間、禁書とされていた。
ところが、この先達の言葉は武士の心の中に永遠の住処を見出していった』


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太田龍氏は『日本をここまでダメにした真犯人・大魔王を撃て(第一企画出版)』の中で次のように述べている。

『聖徳太子の著作として伝えられる著述、文章の中で神道を根本とし、その上で儒教と法華経を頂点とする仏教を消化すると記されている。
この命題が、聖徳太子が実在していようといまいと、その後の日本の思想史の骨格をなしていることは疑い得ない。
ここに神道といわれるものの実態は何なのか多くの議論がなされ得るが、聖徳太子と関係が深い筈の百済と三国(百済、新羅、高句麗)統一後の韓半島で、日本の神道と類縁性を持つと見られるシャーマニズムなどの神道的要素が、国民と民族の思想信仰の主流から外されてしまったこと。
にも拘わらず、日本では皇室を中心に皇室が仏教に深く帰依した時代においてさえ、神道が日本の国家と民族の土台ないし包括的枠組として生き続けて来たことは、何人も否定出来ない。
しかしながら、神道系の一部の人々が日本列島への仏教伝来を「仏魔の侵攻」と呼ぶことがあるように、仏教の内容に(あるいは仏教を通じてインド文明総体と中国文明総体に)多大な問題があることは認めないわけには行かない。
仏教はバラモン教社会の土壌から、それの否定、批判、超克として生まれた。
従って、仏教に厳重なカースト制度を持つバラモン教の要素が滲み込むことは殆ど不可避である。
妙法蓮華経は、万巻の仏典の中でバラモン教的なるものとの戦いの究極の到達点ではなかろうか。
この法華経信徒集団は、インドで滅び、中国でも成立せず、ただ日本においてのみ古神道の真髄と結び付いた形で、日蓮聖人によって産み出され得た。
内村鑑三が五人の代表的日本人の一人として、日蓮を挙げたのは誠に道理にかなっている。
日蓮は単なる仏教徒ではない。
日蓮は、神道と仏教の真髄と儒教の核心を結合した日本民族の精神的柱である。
日蓮には「神国王御書」「立正安国論」「守護国家論」の著作がある。
日蓮が出現していなければ、戦国末期からのユダヤの日本侵攻の謀略の前に、日本民族は既に滅びていたかも知れない。
神道と法華経。
これが、日本文明の原理となるであろう』


そして太田氏は、日蓮の宗教を「法華神道」と呼んでいる。

『日蓮の法華神道は、この大悪魔(ユダヤ)を破折し折伏する使命を以てこの日本列島に出現した。
神道には「破邪」の機能はない。
従って、もし日本民族に神道のみが存在するとしたなら、大悪魔の滲透と侵攻に対する免疫力が働かなかったであろう。
つまり、神道も滅ぼされたであろう。
仏教の日本化、日本化された仏教(その頂点に日蓮の法華経が位置する)あるが故に、日本民族は今日まで古神道(人類始原の文明の正統性を今日に伝える)の枠組を維持し得たのではないだろうか。
大正末年、ユダヤが一挙に日本占領に出て来た時、これを破砕する戦いの中核になったのは、当時の一握りの古神道派と井上日召らの日蓮主義者であった。
遺憾ながら、この時点では、彼等のユダヤ認識は皆無に近く、日本民族はユダヤの作戦に翻弄された。
既に、皇室、宮中奥深くにまでユダヤの魔の手が伸び、高等教育の学生は九割九分までユダヤ悪魔教(リベラリズム、マルクス主義、ユダヤ化されたキリスト教)のペテンに罠められていた。
明治維新唯一の生き残りの元老にして昭和天皇が全幅の信頼を寄せられた西園寺公望公爵は、きわめ付きのフリーメーソンのエージェント、すなわち国賊であった。
当時の維新派、愛好者が売国奴、西園寺を暗殺の標的としたことは余りにも当然だ。
日本民族の一部先覚者が、真剣にユダヤ悪魔教の本体の研究に着手したのは、実に昭和16年以降の3、4年のことに過ぎない。
この頃でさえ「日本は隅から隅までユダヤ化されている」といわれたのである。
平成の御世になって、ユダヤのプログラムを通りせきを切ったように日本のユダヤ化(日本的なるものへの全面的な解体)が前進した。
しかしそれと同時に、日本民族も反撃を開始した。
この反撃は、今回も古神道と日蓮法華を精神的基盤として組織されるようだ』

『古神道を根幹とし、法華経(インド文明の精神)と儒教(中国文明の真髄)を枝、葉とし、人類を滅亡に追い込む西洋のユダヤ悪魔教超克の上に立って産み出されるのが「天寿学」である。
日本民族が古神道という枠組を保持しつつ、仏教をも日本化したと了解するとしたら、儒教はどのようにして日本化されたのであろうか。
この問題は「孝経」に視点をしぼる必要がある。
中国儒教(ひいては中国人の道徳全体)は「孝」(親孝行の徳)を中心として成立する。
通俗に日本(化された)儒教は「孝」を「忠孝」に変えたといわれる。
しかし、これは皮相な理解だ。
日本民族は「孝」を四次元的な立体構造で把握したと見るのが正しい。
「忠孝一本」という日本流の言い方はこの四次元的孝の道の別の表現なのだ。

四次元的孝とは、
・一次元→親子の関係。親子の孝の道
・二次元→先祖をどこまでも遡ってゆく孝の道→先祖は地球そのものとなる
・三次元→太陽を先祖とする孝の道→天照大神への祭祀
・四次元→無始無終の大宇宙を究極の先祖、親とする孝の道。
神典では天御中主神となり法華経では妙法蓮華経となる。

自分→親→先祖(地球)→太陽→大宇宙へと中心を貫く孝の道、これが忠であると日本民族は観じ、また行ずる。
天皇「すめらみこと」の職務は、この四次元の立体祭祀を執り行うことであるとされて来た。
そのような意味で皇室は日本民族の中心であり柱であり続けた。
これに対しユダヤ悪魔教はどうか。
彼らの世界観の根本は、神仏への反逆である。
サタンは神仏への反逆者である。
彼らはサタンを崇拝する。
従って、彼らの言動は必然的に不可避的に宇宙の秩序の破壊となる。
彼らは神国日本の存在そのものを最大なる憎悪を以て見ざるを得ない。
今や、ユダヤ悪魔教に魂を奪われた哀れな家畜人とされた日本人は、「神国日本」と聞いただけで、飛び上がって怒る(アレルギーを起こす)ような心理にされてしまっている。
我々は、今や世界を蔽いつくし、地球壊滅に導きつつあるユダヤ悪魔教文明との一大対決、霊的精神的戦いを避けることが出来ないのである』
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イエス・キリストの預言者「日蓮」&「空海」と法華経と黙示録

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日蓮の思想を一言で言えば、法華経のエッセンスである題目「南無妙法蓮華経」を唱えるだけで救われるというもので、法華経の信仰に帰依する者だけが救済されるとし、日蓮は他宗を激しく攻撃した。
これはイエスがユダヤ教パリサイ派を非難したことに似ているが、果たして日蓮は、本当にそのような強引で独善的排他的な説法をしたのだろうか。

法華経には「常不軽(じょうふきょう)菩薩」という話が載っている。
自分の悪口を言う者や攻撃する者に対しても、常に手を合わせて拝む人の話で、これがカルマをつくらない生き方だとされている。

「最大の敵を褒め讃える」(提婆達多品・第十二)

イエスが「汝の敵を愛せよ」と説いたことと同じである。
日月神示にも「悪く言われるとメグリ取ってもらえるぞ。悪く言うとメグリつくるのぢゃ」とある。
メグリとはカルマのことである。
だが、イエスと日蓮は説法と行動が一致していない。
日蓮に至っては、同胞の争いには共生を説くが、他国の侵略には断固立ち向かって問答無用で全滅させ、災害や戦の予言的中をネタに信者を集めた。

オコツトはいう。

「単なる批判のための批判ならば、いかなる進化も持つことはないでしょう。
問題は他者に向かうことではなく、自分自身に向かうことです。
あなたは他者の状況を見てその存在証明を必要と感じていらっしゃるのですから、その問題の解決へ向けてあなた自身が行動を起こしていけばいいだけのことではありませんか。
他者への批判はあまり意味のないことのように思えます」


私は小学校3、4年の頃から法華経を研究していた。
日蓮ほどの人物が、何故このような言動を取ったのだろうか。
前述の通り、日蓮とイエスには共通点がある。
イエスは素戔嗚尊であり、王仁三郎も素戔嗚尊であった。
日蓮の言動は、出口ナオに対する王仁三郎の言動と一致する。
つまり、日蓮が意識していたか否かは知らないが、日蓮の言動はある種の「型示し」だったのだ。
日蓮は時の権力者から迫害や流罪など様々な法難に遭ったが、これは王仁三郎の言動が招いた大本の国家権力による数々の弾圧に酷似する。

つまり、日蓮も素戔嗚尊なのだ。
最も有名なのが「龍ノ口法難」で、日蓮が鎌倉幕府によって斬首される寸前、落雷で刀が折れて一命を取り止めたという逸話がある。
これも「型」としてはイエスの処刑であり、また、王仁三郎がエルサレムで銃殺される寸前に銃が故障して命拾いしたこととシンクロする。
その後、日蓮の弟子がその地に建立したのが龍口寺で、境内には日蓮が閉じ込められた石牢が遺されている。
これも、王仁三郎が投獄されたことに符合し、イエス(天照大神)が岩戸に隠れたことの再現でもある。

何もこじつけではない。
天照大神は太陽神であり、日蓮はその名が示す通り「日=太陽」を象徴する。
そして龍ノ口の落雷は、龍が火を吹いたことを意味する。
龍とは何か……「素戔嗚尊=国常立尊」、ヨハネの黙示録でいう「ルシファー」である。
何度も述べたが、雷はプラズマ(電磁波)で国常立尊の働きであり、落雷はルシファーの象徴である。
日蓮は国常立尊(素戔嗚尊=ルシファー)の守護を受けていたのだ。
カッバーラ的に言えば、日蓮は「イエス・キリスト(ルシファー)の預言者」だと言える。
もっと言えば「日蓮=イエス・キリスト」でもある。

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1271(文永八)年の大干魃の際、北条時宗は真言律宗の忍性に雨乞の祈祷を依頼した。
それに挑戦したのが日蓮で、「もし7日以内に雨が降れば、忍性の弟子になってやろう。降らなければ自分の弟子になれ」と申し出た。
結果、忍性が14日間祈祷したが雨は一滴も降らなかった。
代わって、日蓮が法華経を唱えると、3日3晩に渡って激しい雷雨が降ったが、これも王仁三郎の言霊実験と同じである(忍性が近くまで雨雲を呼んでいたのかも知れないが…笑)。

また、「法華経」の授学・無学人記品(第九)で、釈迦が弟子の阿難陀(アーナンダ)に、次のような予言をしている。

「汝は来世において、当に仏と作ることを得べし。
山海慧自在通王如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と号けん。
当に六十二億の諸仏を供養し、法蔵を護持し、然して後に阿耨多羅三貘三菩提を得べし。
二十千万億の恒河沙の諸の菩薩等を教化して、阿耨多羅三貘三菩提を成ぜめん。
国を常立勝幡と名付け、その土は清浄にして瑠璃を地と為し、劫を妙音遍満と名付け、その仏の寿命は無量千万億の阿僧祇劫ならん」


この抜粋は一部だが、授学・無学人記品では、十方世界になれば人間は仏となり、超長寿になることが示されている。
この「阿難陀」の名は、法華経の守護神である八大龍王のリーダー格「阿難陀龍王」と同じである。
そして「八」は素戔嗚尊の数字であり、八大龍王とは「八岐大蛇」、即ち龍神の総大将「国常立尊」のことなのだ。
その証拠は『長阿含経』巻・第二十一・第四分『世記経』で、難陀竜王と跋難陀竜王が須弥山を取り巻き、雲を生み出して雨を降らし、尾で大海を打って飛沫を須弥山の頂上にまで跳ね飛ばすという描写がある。

つまり、自然現象を司る龍神の総大将「国常立尊」なのだ。
この法華経を守護する八大龍王は、伊勢神宮の西南の金剛証寺の近くに祀られており、空海が経文を埋納した塚を施して、八大龍王を祀って伊勢神宮の守護を祈願したと言われており、伊勢神宮の守護神となっている。
阿難陀が仏となる国の名は「国名常立勝幡」だが、これは「国常立尊(日本列島)」に他ならない。
そして、伊勢神宮の主祭神は「天照大神」と「豊受大神」である。
天照大神はイエス・キリスト(太陽神)、豊受大神は豊穣の神(月神)であり、内宮と外宮は「日月」を表すと同時に、豊受大神は国常立尊でもある。

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以前、次のようなことを述べた。

「1ヶ月(陰暦29日半)の内、月が見えるのは28日間で、二十八品から成る法華経は、月のテレパシーを受けたものだ」

日蓮は太陽を象徴するが、月神信仰でもある。

その証拠は……。

「明かなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。
法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。
日蓮又日月と蓮華との如くなり」


日月の神といえば、天理教からの系譜である『日月神示』で、正確には「地球=国常立尊」を含む、日月地の三位一体である。
そして、蓮華は天国の象徴だが、蓮華は泥の中では全て連なっている。
これが意味することは、説明するまでもないだろう。

そして決定的なエピソードがある。
日蓮の星信仰(虚空蔵菩薩信仰)が天変地異に着目し、『立正安国論』の「日月失度 時節返逆」の思想となっている。
虚空蔵菩薩の化身は「明星天子」といわれ、日・月・星・雨・雷などの自然現象を司るとされる。
『法華経序品第一』には復有名月天子・普光天子・宝光天子の三光天子が登場し、明星天子は「普光天子」の名で会座に列なり、帝釈天に率いられて法華経の行者を守護する。

『法華文句』巻二下には、次のようにある。

「名月等の三光天子は是れ内臣、卿相の如し。
或いは云く、是れ三光天子のみと。
名月は是れ宝吉祥にして月天子大勢至の応作なり。
普香は是れ明星天子にして虚空蔵の応作なり。
宝光は是れ宝意にして日天子観世音の応作なり」


「明星」はルシファーの象徴である。
ルシファーは「国常立尊」であり、また「イエス・キリスト」である。
日蓮は、12歳の時に天台密教の清澄寺と縁を持ち、16歳で出家し、21歳で天台宗の総本山である比叡山の延暦寺に赴き、仏教研究に10年間を費やした。
清澄寺は、宝亀2年(771年)に不思議法師が虚空蔵菩薩を刻んで開創したとされている。
天台宗で虚空蔵菩薩は、『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹」と説き、天台教義で三光天子は山王信仰と結び付いている。

「生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給はりし事ありき。
日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん。
明星の如くなる大宝珠を給ヒて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ」


日蓮は、清澄寺での修行期に「虚空蔵求聞持法(超記憶力)」を会得し、建長5年(1253年)4月28日に立教開宗したが、その虚空蔵菩薩への報恩の為に、立教開宗の地を清澄山にした。
空海も、虚空蔵菩薩真言を唱えていると明星が口の中に飛び込んできて、「虚空蔵求聞持法」を会得したことが『三教指帰』に記されている。
明星(金星)は虚空蔵菩薩の化身であり、日蓮同様、空海もルシファー(イエス・キリスト)の預言者となったのだ。
空海は、儒教や道教、景教(キリスト教)、ゾロアスター教、マニ教なども勉強したといわれる。
特に景教に傾倒したようで、真言宗の儀式に十字を切る手法や、洗礼に似た潅頂の儀式があり、景教の石碑と酷似したものが高野山奥の院に建っている。

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日本には、仏教が伝来する以前に景教が入っていた。
それは空海が崇める、日本仏教の祖であるイエスの12使徒の末裔「秦氏」の聖徳太子で、広隆寺の弥勒菩薩像の指の形もキリスト教の三位一体を表している。
原始キリスト教徒の末裔で、天照大神(イエス)を奉じる皇室の聖徳太子が、なぜ仏教を導入したのか。
イエスの使徒トマスが、インドに移り住んだイスラエル民族のもとに、イエスが説いたカッバーラの奥義を伝導し、釈迦が説いた原始仏教と融合して法華経となった。
禅の始祖とされる中国の達磨大師の正体が法華経の創始者で、イエスの使徒トマスだというと奇妙に聞こえるが、この線は濃厚である。

いずれにせよ、イエスの12使徒の末裔である聖徳太子は、法華経の中にイエスが説いたカッバーラの奥義が散りばめられていることに気が付いたとしか考えられない。
ナーナクがイスラム教とヒンドゥー教を融合したように……。
空海は中国留学の際、聖徳太子が伝えた法華経とキリスト教の間に、本質的な共通点を見出したのだろう。
渡部勇王氏によると、仏教の使命期間は世界的にも日本的にも既に終了しているそうだが、「ヨハネの黙示録」と「法華経」は共に今日の日本民族の覚醒の為に書かれたものだと断言している。
確かに両者の終末預言は、奇妙な一致を見せる。

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『見宝塔品(第十一)』では、多宝如来が乗っている「宝塔」という葉巻型UFOとしか思えない空中に浮かぶ乗り物が出現し、釈迦も同乗したことが記述されているが、この時に釈迦は地球内天体アルザル(シャンバラ)に訪れ、臨終の際に弟子にシャンバラを語った。
そして『従地涌出品(第十五)』では、末法の時代に大地震が起き、大地の底から無数の地湧菩薩が現れるという。
これは、イスラエル10支族がアルザルから地上に帰還することに符合する。
同時に、八大龍王(マグマのエネルギーである国常立尊)が、素戔嗚尊として地上に顕現することを意味することは間違いない。

そして『嘱累品(第二十二)』では、多宝如来の帰還が予言されているが、これは基本的に地湧菩薩の出現と同じだが、ここで現代版「ノアの箱舟」によって虚空会が起こる。
虚空会は黙示録でいう「空中携挙」であり、虚空の世界に救い上げられてイエス・キリストに会うのだ。
この事を『霊界物語』は、「黄金の鉤針で、選ばれたる正しき神人が天橋の上に引き揚げられて、国常立尊の神殿に入る」と予言している。
『大本神諭』や『日月神示』にも同様の記述があることは、既に述べた通りである。
そして地上は十方的世界のミロクの世となり、人類は変換人(ミロク神人種)となる。
当然のことだが、救われる条件に宗教や宗派は一切関係なく、信仰の有無も全く関係ないことを述べておく。

ちなみに飛鳥昭雄氏の新刊『言霊でしか解けない聖書 ヨハネの黙示録&ハルマゲドンの巻』は、黙示録をカッバーラで解読されたものだが、法華経をカッバーラで解いた時、最後の封印が解かれる(その真髄は『霊界物語』と数霊のバイブル『日月神示』で既に明かされているが……)
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ヴィーナスが導く神道と仏教のルシフェリアンと言霊の原理

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金星がルシファー(国常立尊=虚空蔵菩薩)であるなら、『大本神諭』を降ろした出口ナオや『日月神示』を降ろした岡本天明もまた、日蓮や空海と同じく金星に導かれた「ルシファー=イエス・キリスト」の預言者だったことになる。

その証拠は…………

『フォトンベルトと日月神示(岡田光興)徳間書店』の中で発見したので抜粋する。


――岡本天明が絵の雅号として「天明」を用いたのは、20代前半の神戸に再び帰ってきた時期であると言われいる。
この雅号は自分が故郷岡山玉島の明星たらんとして名付けたとも言われている。
しかし大本時代の岡本天明は、岡本霊祥と名乗っており岡本天明という名は、大本の文献には出てこない。
天明と公に名乗り始めたのは、昭和10年の第1次大本弾圧の後のことであったようだ。
大本に入り、岡本天明は「天明」という雅号の持つ重大な意味に気付くことになったと思われる。
なぜなら大本の聖典の一つである『霊界物語』には次のような記述があるからだ。

「宗教学者の主張せる 死神死仏を葬りて 最後の光は墓を蹴り 蘇らすは五六七(みろく)神 胎蔵されし天地の 根本改造の大光明 尽十方無碍光如来なり 菩提樹のもと聖者をば 起たしめたる暁の 天明閃く太白星」

また、第28巻総説歌にも次のような記述がある。

「三千年の人類や 禽獣虫魚に至る迄 救ひの舟を差し向けて 誠の道を教えゆく 神幽現の救世主 太白星の東天に きらめく如く現れぬ」

この「天明閃く太白星」の太白星とは、金星すなわち明星のことである。
出口ナオのお筆先にも「明けの明星」が登場し、また聖師出口王仁三郎も大正10年の大本第1次弾圧の日に、収容された京都の未決監獄で窓から異様に光輝く上弦の月と太白星を発見し、その後謎の預言書『霊界物語』の口述を始めた。
そして実は、この岡本天明が自らの雅号として選んだ「天明」という名にこそ、岡本天明の霊的使命に関する決定的な秘密が隠されていたのだ。
釈迦、キリスト、空海、日蓮など古今東西の宗教家、霊覚者の中で、この金星に誘われて自らの宗教的使命を自覚した者は数多い。
聖書のヨハネの黙示録の最終部分にも、
「私イエスは、使を遣わして、諸教会のために、これらのことをあなたがたに証した。
私は、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」(第22章16節)

この「明けの明星」は救世主の代名詞とされ、暗黒の世からの夜明けが近いことを暗示する希望の星であるとされている。
その意味で岡本天明の霊的人生も、人類の霊的進化の導きの星である金星と深く宿命づけられていたのではないか――


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言霊はイスラエル10支族及び2支族のイエスの使徒の末裔(秦氏)と共に、言霊幸う国(古代日本)にもたらされた。
聖徳太子は言霊学に精通し、原始キリスト教をルーツとする神道、そして儒教・仏教に造詣が深かった。
十七条憲法の第一条「和を以って尊しとなす」も、単に「仲良くする事は大切だ」という意味ではなく、言霊「ワ」の意味を熟知した上での言挙げだとされる。
太子は皇祖皇宗の布斗麻邇による人類史創造の内容を熟知しながら、日本古来の言霊学を秘蔵し、儒教と仏教を表立て、競争社会での人心の安寧を計った第一人者だという。
太子は帰化ユダヤ人のルーツを知った上で、秦河勝に弥勒菩薩半跏像を下賜し、ユダヤ人の根拠地として太秦に広隆寺を建立させた。

以前述べたが、太秦の語源はアラム語(イエスの時代のユダヤ人言語)の「イシュ・マシャ」(イエス・メシア=イエス・キリスト)であり、弥勒菩薩は再臨のイエスの象徴である。
広隆寺境内の伊佐良井(いさらい)は「イスラエルの井」で、現存は3つだが本来は12の井戸が存在した(イスラエル12支族を象徴)。
更に近所(元々は境内にあった)大酒神社は大辟(おおさけ)神社の転訛で、「ダビデ」の漢音名だという。
大酒神社の10月12日の牛祭は、ユダヤの万有意識を分析し、物質を探究するユダヤ民族3000年の責務を表わす七夕の織姫(天照大神)と牽牛(須佐男命)、言霊(ウ)の意味を表わし、それは五行でいう金星(ウ)と同意でもあるという。

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『弥勒菩薩下生経』によると、釈迦の甥である弥勒が仏教に反逆した罪で追放され、五十六億七千万年の修業の後、弥勒菩薩となって下生し衆生を救うとされ、物質世界の真相を究明し、その偉勲によって人類を救済する仏として予言されている。
それは、高天原で反乱を起こし、黄泉国に追放された素戔嗚尊が物質文明を完成させる事と対応し、皇祖の歴史経綸の説明とも一致する。
ここでいう「素戔嗚尊」は、霊主体従の国常立尊(素戔嗚尊)の裏の顔である、体主霊従の「盤古大神」、即ち西欧ユダヤ・キリスト教が唯一神と崇める「ヤハウェ」であり、その実体はイルミナティの神「ルシファー」である。
つまり天界から追放された堕天使ルシファーであり、「弥勒=牛=須佐男命=金星=ルシファー=イエス・キリスト」だが、その暗黒面である。

太子は、物質科学文明を創造する為の方便として、言霊布斗麻邇の原理による世界統治の業(古神道)を隠没させる為に神社神道を創設し、言霊の原理を隠してその象徴を形にし、儒教や仏教の儀式を採用した信仰形式としたのだ。
それは、古神道の言霊布斗麻邇の原理をこの世から抹殺することではなく、物質文明完成の暁には再び復活させられることになっている。
大本のお筆先では「知らしてはならず、知らさいでもならず、神は辛いぞよ」とある。

空海は天皇の前で真言密教の法話をし、天皇は空海に言った。

「汝の話は見事であり、何も言うことはない。
ただ一つ、日本には古来から真言密教の原本となる言霊布斗麻邇があるのを汝は知っているか」


空海は直ちに理解し、その後の真言密教は空海独自の色合いを深めた。

大師全集三十数巻の最後に、空海が伊勢神宮に参籠し、神前で奏上した。
「……民、空海謹み謹みも申す」

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「知らしてはならず、知らさいでもならず、神は辛いぞよ」と同じ気持ちで奮闘した人物が日蓮である。
日蓮が伊勢神宮に参籠し、荒木田某神主より言霊布斗麻邇を学び、日の出に向って題目を唱え、法華経全体が指月の指となる言霊布斗麻邇の大法を胸中に抱き、日蓮独自の法華経を広めたことを知る人は少ない。

日蓮が日本古来の言霊布斗麻邇をどう思っていたのか……弟子の三沢某に送った手紙がある。

「我に付きたりしものどもに、真の事を言はざりけると思いて、佐渡の国より弟子共に内な申す法門あり
此は仏より後、迦葉、阿難・竜樹・天親・天台・妙樂・伝教・義親等の大論師、大人師は知りて而もその心の中に秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に入らずば此大法言ふべからずとありし故なり。
日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此大法をさとりぬれば聖人の出でさせ給うまで、先づ序文にあらあら申すなり。
而るに此の大法出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、皆日出でて後の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。
此時には正像の寺堂の仏像僧寺の霊験は皆消え失せて、但此の大法のみ一閻浮堤に流布すべしと見えて候」


「日出でて後の光」とは、あってもなくてもよいものという意味で、「一閻浮堤」とは人類社会という意味である。
法華経の巻末『観音賢菩薩行法経』の普賢菩薩とは、普(あま)ねく賢(かしこ)い菩薩(果位の菩薩)という意味で、天皇(スメラミコト)を示す。
この経に登場する3つの宝(金剛杵・金輪・摩尼珠)は、神道(ユダヤ)の三種の神器である。
『行法経』には、言霊の運用について書かれている。

さて、古代イスラエル民族は世界中に離散し、選民としての使命を全うするべく活動した。
1つは、各地を放浪し、その土地の民族に溶け込んで競争社会を生み出し、物質文明の中核となることで、もう一つは、文明の利器がもたらす金力・権力・武力によって世界を再統合することにある。
イスラエル10支族とイエスの使徒レビ族(秦氏)は古代日本に渡来して大和朝廷を樹立し、皇室を確立した。
西欧に散らばった2支族(ユダヤ人)は、白人社会の権力支配層の中核となり、言霊の原理を物質方向に応用した錬金術等の技術に始まり、やがて近代的な物理学や天文学、人文科学等へと進歩していった。
経済や産業、学術的にも秀でたユダヤ人は常に生存競争の勝者であり、それを支えているのがカッバーラであり、日本にはヘブライ語の子音と数霊を以って、10支族と秦氏によってもたらされた。
それが「物質文明の完成」を目指す神(大自然)の経綸である通り、この騒乱の生存競争社会の中から、目を見張るような科学の功績により、物質文明が創造されてきた。

言霊の原理から見た「歴史の時間」とは何か……。
壮大な言霊学のほんの触りだけを紹介するが、小笠原孝次氏は次のように説明している。
人間は「ウオアエイ」で示される五つの性能を持ち、その中で言霊ウ(五感に基づく欲望)と言霊オ(経験知)から見る時間の中で人々は、現象が現象を生む輪廻の業の中に生きている。
そして言霊ア(感情)の視点から見て、初めて永遠の今を知り、時間の流れに流され生きているのではなく、永劫の今を生きていることを知り、物事のただ一つしかない真実の姿を見ることが出来る。
この「あ(阿)」を知る瞑想法が、真言密教の「阿字観」である。

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だが、その段階に達しても、万事好都合として処理できる悟りを得ることは出来ない。
生命進化の最終段階、言霊イ・エの観点に立って、初めて時間と空間の束縛から脱却し、永劫の今の中に存在する五十音言霊の法則を悟り、言霊原理による人類の歴史創造の担手(真のフリーメーソン)となることができるのだ。
物質文明創造の為、精神文明創造の原理である言霊布斗麻邇が歴史の表舞台から隠没されたが、人類文明創造の活動が無くなった訳ではない。
言霊原理を忘れた人類の、業が業を生む欲望と知的傲慢な行動による苦悩に満ちた「火宅の世」に導いたのが、放浪民族ユダヤ人の神ヤハウェ(偽の天照大神)、即ち国常立尊の暗黒面である盤古大神である。
この偽のヤハウェこそ、ユダヤ財閥・イルミナティーが崇めるルシファーなのだ。

正確にいえば、ルシファー(国常立尊=素戔嗚尊=イエス・キリスト)の暗黒面である「盤古大神」である。
それは、オコツトがいうプレアデスの流れとも言えるだろう。
そして、物質文明完成の暁には本物のヤハウェ(本物のルシファー=イエス・キリスト)、つまり国常立尊(素戔嗚尊)・天照大神の言霊原理が復活し、太古の精神文明(霊主体従)と現代物質文明(体主霊従)が融合し、ミロクの世(霊体一致)が完成することになるのである。
小笠原氏は、5つの言霊ウオアエイの性能は宇宙から発現しており、心の宇宙はウオアエイの5次元重畳構造を持つが故に、人間の心の本体は宇宙そのものだと述べている。

スウェデンボルグは次のように説明している。

「天的天使たちは、主に対する愛の善にいる為、知恵から話し、霊的天使たちは、真理を本質とするところの隣人愛の善にいる為、理知から話している。
天的天使の言葉にはウとオの母音が多いが、霊的天使の言葉にはエとイの音が多い…
善が含まれている語にはウとオが多く、また多少アもあるが、真理が含まれている語にはエとイが多い」


『日月神示』にも同様の説明がある。

「霊人の言葉は……二つのものに大別し得る。
歓喜の現れとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。
歓喜の流れに位置する霊人の言葉は、知的内容を多分に蔵している。
…前者は愛に住するが故に、主にOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。
そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感応し得る能力を持っている。
しかし、これらO・U・E・I、及びAの母音は想念の・を成すものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては感応し得ないことを知らねばならないのである」
posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 10:53| Comment(0) | カテゴリ未決定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする