『日月神示』には「八方的地上から十方的地上となる」「半霊半物質、4次元の高度の、影ないうれしうれしの世である」という言葉が出てきたが、それは段階的ステップに過ぎず、その後、5次元、6次元……へと更なる進化のビジョンが示されている。
「霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸開きて二度とない九十(こと)で開く仕組み」
「此度の岩戸は立体に入る門ぞ」
「立体の道を早う悟りなされよ。正中の大道であるのであるぞ。
左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。
左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。
平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に復立体、復々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ」
「原因の世界」とはまさに、森田健氏のいう5次元のことである。
そして、「立体=4次元」→「復立体=5次元」→「復々立体=6次元」→「立立体=7次元」へと次元上昇していく様子が窺える。
「反対の世界と合流する時、平面でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から復立体に、復々立体に、立立体にと申してあろう。
漸次輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸開きぢゃ」
「一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ」
「反対の世界」とは、物質界に対する霊界を意味するのか、或いは……。
そして、高次元の存在を体得することが急務であるかのように示されている。
半田広宣氏もこのように述べている。
「4次元空間は本来、復素数的な構造を持ったいるにもかかわらず、わたしたちは虚数部を視覚化することができないでいる。
虚数部にかかわる空間の概念を形作り、わたしたちが日頃慣れ親しんでいるこの空間を復素数的な場と見なせるような新しい空間概念を作り出せば、その構造は必ず素粒子の内部構造とリンクするシステムを形成しているはずだ。
そして、そのトポロジーの幾何学を見出すことさえできれば、高次元の力を流入させる共振回路が必ず作り出せる……。
そのためには意識の幾何学という新しい概念を提出する必要がある」
これは、タキオン発生装置を完成させるイメージとして述べられたものだが、この新しい空間概念「意識の幾何学」を認識することが重要だと、『日月神示』は告げているようだ。
なぜ重要なのか……その人類の意識が、次元上昇(新たな太陽系の創造)に関係しているからである。
だが、『日月神示』に具体的な記述は見当たらない。
この「意識の幾何学」を人類の頭脳にプログラムすることこそ、オコツトの役目だったのだ。
オコツトは、宗教や精神世界が説くような「心の問題」には殆ど触れていない。
そして、時空について次のように説明する。
「あなたがたが空間と読んでいるものは次元観察子ψ1、つまり精神球です。
オリオンの力がプレアデスの中に反転させられているということを意味します。
定質の凝縮化という言い方もできるでしょう」
「あなたがたが時間と読んでいるものは次元観察子ψ2、つまり感性球に相当するのではないかと思います」
「(感性球とは)性質が反性質の中に反転して現れている部分です。
反性質においては、定質(イザナギ)と性質(イザナミ)の関係が精神球と感性球に相当します」
「あなたがたが意識している空間と時間とは精神球と感性球の関係と同じです。
すなわち、定質と性質がタカヒマラの外面に進化を投げかけているということです」
4次元をイメージする為に、半田氏は1つの例を挙げているので、今、実際に試してみて頂きたい。
何でもいいので、身の周りにある立方体(3次元)の頂点(角)を自分に向けてみる。
そこに鉛筆を当てた方向に4次元が存在することになる。
鉛筆を当てた方向(4次元)には、立方体(3次元)の頂点をのぞき込んでいる自分が存在する。
お分かりだろうか。
つまり、この世界を3次元として認識できるのは、我々が4次元の世界に存在しているからであり、人間の本質は4次元から3次元をのぞき込んでいる意識生命体なのだ。
では、5次元とはどのような世界か。
人間型ゲシュタルトから脱却した新たな空間認識とは、どのようなものなのか。
詳細は、半田氏の著書をお読み頂きたいが、ここでは概要をザッと見ていこう。
「オコツトが人間の外面と呼ぶ次元観察子ψ3(中心球)とψ4(表球)とが形作る5次元空間とは、観察者の質点が3次元の自由度と3方向の時点の自由度を持って動き回り、様々な対象を観察する時に生み出される空間の全体性を意味する。
つまり、対象から主体へと向かう空間が次元観察子ψ3、主体から対象へと向かう空間の方向性が次元観察子ψ4ということになろう。
ψ3とψ4の間に生まれている5次元世界とは、私たちが外界に対して様々な対象認識を形作っている空間だということが言えるだろう」
「5次元対称性とは、3次元空間の中で移動する私の位置の全てと、その移動によって認識される対象の質点の全てを結ぶ空間に存在する。
私たちが今まで宇宙と呼んでいた広大な空間など、どこかへ雲散霧消してしまうのだ。
全ての存在物は〈見ている私〉と、その〈私〉と鏡像のような関係にある〈見られている対象〉の間にしか存在しなくなる。
5次元の対称性が見えてくると、3次元的な空間感覚や時間感覚は全て消滅し、それに伴い自己という概念も大きく変容してくるのが分かる。
まず、私が最初に体験したのは運動感覚や移動感覚の消滅だった。
というのも、世界はどうみても〈私〉の位置と対象の位置に挟まれたサンドウィッチのようにしか見えていないので、自分の本性がここにも、そこにも、あそこにも、空間のあらゆる場所に存在しているような気がしてくるのだ。
つまり、本当は〈私〉はあらゆる所から、あらゆる対象物を眺めており、〈私〉が動くといった運動感覚は、このリアリティー・サンドウィッチに突き刺さった一本のスティックの中に意識が落ち込んだために起こるある種の錯覚のように感じてしまう。
それにもし〈私〉の位置が3次元に存在していないとするならば、そもそも〈私が動く〉という表現自体がナンセンスではないか」
「私は生まれてこのかた色々なものを見てきた。
この視覚的な記憶は私固有のものであり、決して他者と共有することはできない。
たとえ他者と同じ出来事を目撃したかのように思えても、脳裏に蘇るそれぞれの映像は、必ず見た角度が異なっている為に、決して同一のものとはなり得ていないはずだ。
ということは、見ている側だけではなく、見られている側、つまり対象物にも〈私〉というアイデンティティーが存在していなければおかしい。
そして、この視覚にまつわる記憶が〈私〉という存在と切り離して考えることができないものだとすれば、〈私〉を規定する要因となっているものは単に身体側としての〈私〉だけではなく、むしろ、対象の位置と〈私〉の位置を結んだ所にある知覚正面の空間の集合体に存在していると考えるべきではないのだろうか。
それらは〈私〉が見る様々な対象の質点と〈私〉の質点を結んだ所にできる空間の全集合に他ならない。
私はこの時にオコツトがいう位置の等化という意味がはっきりと分かった。
〈位置の等化〉とは、〈私〉の位置とそれに対する対象の位置を文字通り〈等しく化する〉ことであり、私が今まで内在世界に存在するものと思っていた記憶が、実はリアリティー・サンドウィッチの世界そのものだということに気づくことなのだ。
このような考え方で〈私=自己〉をイメージすれば、従来の主体と客体という二分化の概念など全く意味をなさなくなる。
つまり、5次元対称性が見えてきた意識にとっては、世界はまさに〈私〉の鏡像であり、それに対峙する〈私〉自身が宇宙そのものになってしまうということになる」
「〈私〉とは、対象の位置とそれを見つめている身体との位置を結ぶ空間の中に存在する。
これは、まさに幽体離脱と言っていい感覚だった。
この感覚がもっと研ぎ澄まされてくると、従来は場所を表す概念として用いていた〈あそこ〉や〈向こう〉などという言葉が、過去や未来という時間を表す概念と同一のものとして感じられてくるから不思議だ。
つまり、私が回想する〈過去〉の時間的広がり、すなわち記憶とは、〈現在〉の空間的な広がりと同一のものとして感じられてしまうのだ。
私が過去の記憶を辿る時、私は〈今〉も〈あそこ〉にいるのであり、かつ、〈ここ〉は〈あそこ〉にとっても〈今〉なのだ。
過去とは決して過ぎ去った世界ではなく、今も厳然として同時平行的に存在している場所として考えなければならない。
そのような思考の在り方こそ5次元意識の産物なのだ。
少年時代に野球をした広場、初恋の相手と散歩したあの公園、オコツトから初めて交信があったあの夜の私の部屋…私は〈今〉も〈そこ〉に生きている…あらゆるところからあらゆるところを見ている意識、それが5次元意識というものなら、記憶こそがまさにそれに相応しい。
それらは全て、私が移動した質点の集合と認識した対象の質点の間に形成されている空間での出来事ではないか。
まさにこの広がりを持つ意識こそが、〈今、ここに、存在する〉私なのである」
「記憶自体の中には過去の出来事の時間的な序列など存在していない。
1週間前の出来事と10年前の出来事を比べて、どちらが遠い過去であるのか記憶のみで判断することは不可能だ。
それらは全て意識の中では重なり合って存在させられている。
記憶の前後関係の判断を行っているのは記憶そのものではなく、あと付けされてくるカレンダーや時計といった人間の内面の空間認識が形作るパラメーターである。
この記憶というビジョンの重なり合いに数直線的な時間的序列を与えているのは、おそらく外在と内在を分離して考える人間型ゲシュタルトの仕業なのだ。
オコツトの言うように時計で測る線型的な時間などは人間の外面には存在していない。
3次元認識しかできない人間型ゲシュタルトにとっては、自己というアイデンティティーの位置は必ずといっていいほど肉体の内部に感覚化されている。
普通、私たちのほとんどは自分が抱く感情、思考、記憶、意思などの心的要素を内在として感覚化しており、目の前に展開されている現象世界とは完全に区別してカテゴライズしているはずだ。
自己なる存在が肉体の内部に幽閉されたことによって、私たちは自我をますます肥大化させ、人間vs自然、自己vs他者という対立概念をより増長させてきた。
科学、宗教を問わず近代以降に起きた世界観の変遷は、すべからく精神の萎縮化であったと見なしてよいのかも知れない。
本来、万物に浸透していた人間の霊性は霊魂という言葉に置き換えられ、同じく肉体という器に宿るエネルギーというイメージで3次元的な描像にまで転落させられてしまったのだ」

